kobeniの日記

仕事・育児・目に見えない大切なものなどについて考えています。

こどもは手段が目的

先日、うちの夫がTwitterでこんなことを言っていた。

そうか。こどもはなんでも楽しむっていうけれど、ぼくらおとなにとっての「手段(目的地へ行くために走る)(紙を切るためにはさみを使う、とか)」を娯楽に変えているのか…。ぼくはつい「目的」のための「手段」として行動の主従関係を考えてしまうけれども、それは彼らには通じない考え方だよなあ。

おっ、夫のくせにたまには面白いこと言うなと思ったわけですが、確かに最近、うちの息子は「はさみで切るという手段」にハマっています。色とりどりの折り紙を切り刻み、ソファーの上には折り紙の断片が山のように…

基本的に大人がやる行為には「目的」があって、そのために手段がある。はさみを使うのは、切って何かをつくるのが「目的」だし、お風呂でお湯を汲むのは、体を流すのが「目的」。けれど子供がやることの多くは、大人にとっての手段自体が目的だったりする。ただ、はさみで紙を切る。楽しいから。お風呂で、延々とお湯を汲んでは流し、流しては汲む。楽しいから。目的はないので、どこにも行き着かず、終わりもない。大人はそれらを「遊び」と読んでいるらしい。

子供にとっては、この世のあらゆる体験が初めてのことに近く、新鮮に感じられるはずだ。だから、はさみを動かしたら紙が切れた!積み木を縦に積み上げられた!自転車に自分ひとりで乗れた!そういう一つひとつの「手段」を習得した時、その喜びのあまり、手段自体を繰り返し楽しんでしまうのだと思う。

彼らがひたすらに泥を掘っていたり、マジックで○を何十個も書いていたり、テープを何かにぐるぐるぐるぐる巻いたりするのを見ると、(本当はそれって、ものすごく興奮する行為なのかも…!)という気さえしてくる。ふだん私は、なんとなく「キリトリ線に沿って」と命令の通りに紙を切り満足しているけれど、実は紙を切るってものすごくハァハァする行為なんじゃないか?そういう原体験を、自分も幼少期にしたはずだが忘れているだけじゃないのか?なんて思う。そういえば私は小さい頃、絵本にカバーをつける行為にハァハァしていたことがあり(本屋さんがつけるプロフェッショナルなカバー構造に強烈な憧れを抱いていた)手のひらサイズのピーターラビット全集に、ひたすら折り紙で作ったオリジナルカバーをつけ、表紙にタイトルを書き添えていた。汚れを防ぎたかったわけではない。カバーをつけること自体が楽しかった。そういう体験って、意外と皆さんにもあるんじゃないだろうか。


大人は、子供たちのやることを「遊び」と呼び、「仕事」と区別している。仕事とは一般的に、利益創出を「目的」としたビジネス全般をさすわけで、仕事におけるすべての「手段」は「お金を儲けること」という目的から基本的には逃れられない。(企業理念が目的で、利益は手段です。と、偉い人には言われてしまいそうだが、それにしては利益の存在感デカすぎじゃないのかと思いますねえ、ええ。)大人の世界で目的を忘れ手段に没頭しようものなら、即座に嘲笑の対象になる。「手段が目的化しちゃってんじゃないの?」とか、「仕事のための仕事じゃん」なんて言われたりする。それは簡単に言えば「お金を稼ぐという目的に対して、効率が悪い、無駄が多い」という意味である…ことが多い気がするんだけど、どうだろう。

けれど、大人のほとんどが、はさみで切ること自体の喜びを忘れてしまっている中で、今でも「はさみで紙切るのマジ楽しい。鼻血出そう」という人がいたら、それはけっこうすごい。たとえば画家とか詩人とか、そういう類いの人は、常に生まれたてのフレッシュな気分で世界を見る必要があるから、はさみで切ることひとつも楽しめるかもしれない。
…という風に考えると、手段が目的化したexcelファイルとか、手段が目的化したシステムとかにもあまり腹が立たないかもしれない。それは「何人日かはともかく開発すんのマジ楽しい」という気持で作られたのかもしれず、「そんなに楽しかったなら…」と、なんとなく納得できる。会議が長引くとなぜかイキイキしだす人も、会議のあの昂揚した雰囲気が好き!会議室という密閉空間にいつまでも閉じ込められたい!という人かもしれず、それはそれで現代アートっぽいので「新しいかも」という気持になれるのではないか。なれないか。


冗談はさておき(冗談だったのか)、目的性の薄いシンプルな行為への原始的な喜び、というのはバカにできない気はするし、大人になっても楽しめるのはなかなか貴重なことだ。鉄道を見るのが好きとか夜中のドライブが好きとか、マスキングテープ貼るのが好きとか山道の散歩が好きとか、意外とみんなやっている気もしますね。「いくつになっても、寝るのが好き」という人なんかも、良いですよねえ。
ちょっと話は逸れるけど、昔ネイリストさんに「仕事の中で一番楽しいのはなんですか?」と質問したことがある。やっぱりカラー(爪に色を塗る)とか、アート(絵を描く)なんじゃないかな、と想像していたんだけど、答えは「甘皮を取るところですね」だった。そこか…
私の「文章を書いては直し、直しては書くのが好き」というのもそれに近いかもしれない。いちおう目的というか、終着点があるような気もするのだけど、整えていく作業が好きというのは、甘皮取りと同じくらいシンプルというか地味?だ。
しかし残念ながら、「目的性が薄い行為」は、お金にはつながりくいように思う。(そう考えるとお金って、目的のあるところに発生するんですね)単純作業、なんて呼ばれちゃったりしてね。もしこの世に、お金という概念がなかったら、私は「家にある本にひたすらカバーをつける」日々を送っているかもしれないなあ。あるいは文章を一日中推敲している。たのしー!推敲たのしー!あっ、陽が暮れた!とか言いつつ。




…それにしても、貴重な童心を持った「手段好き」の大人たちが、大人であるが故に「手段が目的化しちゃってるよ(藁」などどバカにされるのは、あまりに可哀想だと思いませんか。
なのでここらでひとつ、大人たちが心ゆくまで手段を楽しむ夢の国を作ってはどうか。手段が目的ランド。略してSML。
そこでは、目的がなく生産性が微妙な行為ほど歓迎される。すべてのスポーツは、打ちっぱなし投げっぱなしの蹴りっぱなし。ルールはないし勝負もない。ずっとリフティングするもよし、イナバウアーばっかりやるもよし。
ランドの周囲はぐるっと散歩できるようになっており、特にスタートもゴールもない。歩いたり走ったり、それ自体を楽しめるよう、美しい木々や花々が植えられている。
PCなどノマドっぽいことができるスペースはあるけれど、「〆切」は持ち込み禁止。excelやPPTをいじるのが好きな人は、ひたすらいじってもよい。ただし納品はできない。
料理を作れるコーナーもあって、ずっと唐揚げに粉をつけていたい人と、唐揚げを揚げていたい人と、唐揚げを食べていたい人が絶妙な連携プレーを見せていたりする。
何をしたらいいか分からない大人のために、ランド内には「手段メンター」としてたくさんの猫がいる。彼らを見習って一日を過ごす。

周囲には、「手段が目的リゾート(SMR)」があって宿泊もできる。エレベーターを何度昇降するのも自由。別に自分の部屋に帰らず他の階で降りてもよい。「はっ、ランドに行くはずだったのに昼寝しちゃった!」みたいな人は、むしろ従業員から「おめでとう」と拍手されたりする。
もちろん、SMLにもSMRにも時計がない。効率を重視した日常を忘れられる、魔法の国だから。あれ?どっかで聞いたような話だな。



そもそも、人生の目的って何なんでしょうね。
人生って手段なのかなあ。
とか書いて、めいっぱいお茶を濁しつつ、終わり。うちの猫にも聞いてみます。







※全体的に、小沢健二のドゥワッチャライク風の文章になりました。パクったんじゃないよ!影響を受けたんだってば!