kobeniの日記

仕事・育児・推しの尊さなどについて考えています

「それ、何の役に立つの?」と言われたら

40代の女性が、最近チェロを習い始めたら、どうせこの歳で始めてプロになれるわけでもないのに、「何の役に立つの?」と言われた。というツイートを見ました。なんとなく、人ごとではないと感じました。というのも私は40歳になった去年の秋から、全く未経験の習い事を始めたからです。また三年くらい前から、小学校の時以来の絵を描き始めて、特に学校には行っていませんが、今も飽きずに描いてます。趣味があまり長続きしない私にしては珍しいです。

絵については、最初は自分のブログに挿し絵を入れられたらいいな、だからデジタル絵を始めよう。というのが動機でした。自分の絵が大したことないのは、さすがに大人なのでわかるし、今も特に絵でお金を儲けようとは思っていません。ただ、平日仕事で使う脳みそが、分析だったり仕事自体のフローを描くことだったり、ロジックで進めることが多い中で、どうも絵で使う脳みそはぜんぜん違うところらしく、休みになると「模写でもいいから絵を描きたいなあ」と思うことが多いです。単純に、感情的に「気持ちいい」のかもしれません。ツールの進化で、漫画などが圧倒的に描きやすくなったことも大きいですね。

芸術の大半はおそらくこの「気持ちいい」からスタートしていて、チェロだって、気持ちいいから習ってるんだよという方も多いのではと思います。
先の40代の女性に、チェロの(チェロじゃなく芸術の、かもしれない)先生は「芸術は世界と繋がる手段で、世界の示現を感じるために弾くのだ」的な回答をされたそうです。日本語でおK、という感じもしますが、なんだか少しわかるなと思いました。

例えば私は、絵を描き始めるまで、ここまで「影」に注目したことはありませんでした。「何が、上手な絵を上手たらしめているのか?」と観察するようになったら、影が美しく入っていることに気づいたんです。また「実際には目に見えるから、この線を描いたけど、絵にすると、この線は無い方がいい」みたいなこともある。人間って、人の顔を認識する時、すべての輪郭を見てるわけじゃないんだな、と気づいたりします。
おそらく、チェロの世界にもこういうことがあるんじゃないか。弾き始めた人にしかわからない、奥深い世界があるんだと思います。それを知るのは単純に面白いし、これまでと絵や音楽との向き合い方が変わるはずです。美術展や音楽会が、何倍も楽しくなる気がします。しかも、練習していると、ちょっと前の自分の作品がものすごく下手に見えたりするんですよ。えっ、40歳でもこんなスピーディに変化したり上達したりするんだ!!と驚きます。
去年はじめた習い事は、「この面白い○○はいったいどうやって作っているんだろう」という好奇心が動機でした。そしてやはり、作っている人しか知らない真実みたいなものを、教わることができています。面白いですよ。

 

そして、それを喜んでくれる人がいるのも良いですね。コンサートは開けなくても、家族に生音の美しい一曲をプレゼントできたり、「眼鏡をかけた推しを見たい」みたいな妄想のお手伝いぐらいならできる。プリキュア描いて、とかにも応えてあげられる。
確かに私も昔は、「おやじのThe Beatlesコピーバンドとかダサい」と思ってたような気がします。でも今は、保育園で合唱やったりしています。人間が生きている範囲って、物理的には大して広くないんだから、半径数十メートルの人のために何かしてあげられるぐらいで十分だし、自然なんじゃないかと思うようになりました。有名ドラマーの超絶技巧をCDで流すより、半年間がんばって練習した、知り合いの子の太鼓の方が聞きたいシーンもあります。

 

f:id:kobeni_08:20190519165329j:image


…と、こんなことを言っても先の「役に立つ教」の人は鼻で笑うでしょう。「だってそれ、趣味でしょ?お金にならないじゃん」。こういう人にとって「役に立つ」=「プロである」=「利益を生む」だからです。彼らは、花の名前をたくさん知っていることも、星が爆発する時に出る粒子を理解することも、手作りでクッキーを焼いてフリーマーケットに出ることも、一日の9割を寝ている猫の存在すら、ぜんぶ「大した金にならない」「生産性がない」と、斬って捨てるのでしょう。

 

でも私、こういうのも時代遅れだなと思うんですよね。

 

「プロとして」お金を得るのは大変なことです。私もずっと広告というか編集というか、そういう仕事をしてきましたが、プロとして生きていくには今も学び続けなければならない。特にこの仕事、今は媒体自体が紙やTVから、webや配信に大きく変わる時で、これまでやってきたことが一切ムダになり、突然素人になる可能性も高いなと思っています。稼ぎ方が変われば「役に立つ」の方法論だってあっさり変わる、そういう惨たらしさがビジネスにはある。と思いながら働いています。これまで学んできたことで、変わらず使える知識は何か。新しく習得すべきは何か。捨てていく勇気を持って変わっていかないと、「役に立たない」人になってしまいます。
そんなこんな私がオロオロしていると、いまの若者は、プライベートの顔を何かしら持った状態で入社してくることに気づきました。既に事業をやっている子もいます。SNSがある前提で生きている彼らは、否が応でも「自分は何者か、何ができるか」を考えざるを得ない人生を送っているのかもしれません。会社名をプロフィールに書きながら、いつかはここを職業名に書き換え独立したいと考えているかもしれません。

 

何かでプロになり、主収入を得られるようになるのはとても大事なことです。でも、40歳なら、それをできる人はもう、それなりに出来ている状態です。今のアラフォーは、企業に入らないと何も教われない上に、企業から採用を絞られるという悲惨な時代を生きてきました。プロになるのもなかなか大変だったのです。だから「役に立つ教」の人は、そんなことしてる暇があったら何かを極めないと、と言うのかもしれません。
でも今は、昔より転職もしやすいし、会社の外にもオンラインにも学校はあるし、趣味みたいに小ロットで始めても売る手段がいくらでもあるし、そういう意味では「いつ趣味とプロが入れ替わるかわからない」じゃないですか。いくつかやっている中で、収入が多い方が仕事ですか?三つの顔で活動していて、メイン収入が仕事でそれ以外は趣味?うちの父はずっと教員として勤めていて、詩人としても活動していますがそっちは収入は一切なく、それでも病院で職業を聞かれて「詩人です」と答えていましたよ。

 

何かを習い始めたり、学び始める時に、「プロを目指すかどうか」なんて、別に考えなくてもいいんじゃないでしょうか?いい大人なんだから、「この推しCP、マーケットが自分だけだわ」とか、「自分の絵には競合優位性が無さすぎる」とか、気づいちゃうのはしょうがありません。でも、楽しいですよ。上達したり、新しいことを知るのは快感です。世界が示現しますよ(この言い回し、気に入った)。そして、これだけ個人が発信する方法が発達していたら、「なんか気がついたらお金貰えるようになってたんですけど」みたいなこともありますよね?

 

上の世代には、「プロ目指すなら退路を断て」的な考え方の人もいるかもしれません。それだけ、「企業」の中にいる人にも外にいる人にとっても、企業というものの存在感が大きかったんです、たぶん。でも、もう終身雇用も…無理って話らしいし…ねえ。特に、既にそれなりに稼ぐ方法を習得済みなら、別に退路なんか断たなくていいし、副業でも趣味でも心動かされることをしたらいいと思う。日本では生涯学習率が海外に比べ低いんだそうです。大人の学びが少ないってことです。ビジネス面での学習にばかり注目が集まって、しかもそれが企業の中に閉じがちだったことと、無関係じゃないかもしれません。ワークライフバランスが悪すぎたのかもしれませんしね。

 

 

相模原市の障害者施設で起きた殺人事件の犯人は、自分が犯罪を犯したことではじめて、「役に立つ人間になれた」と思ったらしいです。私の子どもが通っている保育園の先生は、子どもたちにギターの伴奏で歌を歌ってあげたくて、アコースティックギターを習い始めたそうです。なぜ事件を起こした犯人が、たとえば施設の利用者さんにチェロを弾いてあげるようなことを、「役に立つ」と思えなかったのか?それは「役に立つ教信者」の考え方と、無関係じゃないのでは。と思ったりします。