この3月、次男が保育園を卒園する。長男(11歳)も同じ保育園に通っていたので、約10年にわたる保育園との日々が、終わろうとしている。大好きな保育園だった。たまたま選んだにしては出会いが幸福すぎた。固有名詞を書いてしまうといろいろと問題が生じるので書かないが、おそらくこの国にはこの保育園のようなすばらしい園がいくつもあるのではと想像する(ちなみに私立認可保育園)。大好きな保育園の思い出、印象に残っていることを書いてみようと思う。
便宜上、ときおり「私の保育園」と呼ばせてもらう。愛情を込めて。
「先生」と呼ばせない
保育園では大人たちは「先生」ではなく「〇〇さん」と呼ばれている。大人と子ども、親と子の関係は、どうしても「指導」「庇護」から「上下」「支配」につながるリスクがあり、けっこう危険だ。だが私の保育園には「先生と生徒」はおらず、「大人と子ども」がそこにいるだけだった。
大人は「ちょっと先に生まれてきた人」として、子どもたちと過ごす。もちろん、やっちゃいけないことはダメと言うし、サポートしなければならないこともたくさんある。だがけして「大人の方が偉い」わけではない。なので、たとえば子どもが何かケンカをして親が報告を受けたとしても、「〇〇と叱り、指導しました」というようなコミュニケーションにはならない。
保育園は、子どもたちがはじめて色々な人と出会い、コミュニケーションを取っていく場でもある。そこが、こういった価値観・世界観であると、まず子どもたちは「自分たちはおだやかに歓迎されている存在」と感じることができる。そういうことが素晴らしいと思う。ちなみに大人たちはエプロン(よく、テレビなどで保育士さんが着ているアレ)もしていない。それぞれ好きな服で来ている。大人にもいろんな人がいるよ、ということを知ってもらうため、だそうだ。
自然と、本物
よく「子どもたちはなるべく自然に触れさせるべき」といった言説を見かけるが、私は「そうは思うものの、その理由に、自分にとって納得感があるものがない」とずっと考えていた。だが、最近は「自然(=土、花、虫など)は、子どもにめっちゃ近い」かつ「割と予測できないものだから面白い」からかしら、などと思っている。
子どもと一緒に歩いていると、ひとりで歩いていては絶対に気づかない、小さな鳥の羽根や、ガラスの欠片などを彼らは目ざとく見つけてくる。地面が近いのだ。自分たちに近いもの、しかも「ただそこにあるから、来るもの拒まずな姿勢」なものと親しくなるのは、当然のことだろう。石とか草とかは、睨んだり拒絶したり逃げたりしない。
また「予測できないから面白い」について。人間界にあるものは、基本的には「先にあった自然界に影響を受けてあとから造形された」ものが多い。だが自然のそのままの姿は、「人間にとっての秩序」の影響を受けない。子どもたちは泥遊びが大好きだが、土ひとつとっても、水を入れたり乾かしたりするだけで色や温度や形が変わるし、子どもにとっては「なんかこれ、そこら中にある割にすごい面白い」んじゃないかしらと思う。
6歳の次男と、今年1月ごろに保育園へ向かう途中、彼が落ちている葉っぱにくっついていたテントウムシのさなぎ(大きさ約3mm)を、めざとく見つけたのには驚いた。「これはテントウムシになるよ」と言うので、保育園でしばらく飼育させてもらった。すると2日後くらいに本当に小さなテントウムシになっているではないか。羽化したばかりのテントウムシは赤ではなく黄色だった。かわいい。自然、面白すぎる。
そもそも人間の体は自然の影響を受けやすく、太陽の光を浴びるとセロトニンが出たりするようにもなっている。子どもが自然に親しむのが心にも体にもいいことは、きっとみんなが感づいているだろうと思うけれど。
自然といえば食べ物もそうだ。保育園に、魚をまるごと焼いて食べる日があるのだが、その魚を、園児たちは焼く前にまず絵に描く。絵に描いたあとで、焼いて美味しくいただく。なのでうちの子は、生魚と刺身と切り身と焼き魚の区別に詳しい。絵は、どの子の絵もだいたいウナギみたいに見えるが。
私の保育園の庭は舗装されていない。舗装されていないどころか、かなり凸凹している。四季によって、園庭に咲く花がどんどん変わるように、いろんな木や花が植えられている。草も、場所によっては生えっぱなしになっている。気を付けないと手を切る雑草もあり、それらは子どもたちに「包丁葉っぱ」と呼ばれていたりする。
自然は面白い、心身にもいい、でも時には怖いものだ。年長になるとキャンプのようなイベントがあるのだが、そこでの川遊びについて、園の大人たちのこだわりに驚いたことがある。水の事故などが相次いで報告される川遊びを、いかにして実現させるか。子どもたちには全員ライフセイバーを着用させ、大人たちが複数川に入り、小さな囲みをつくった上で、穏やかな川の流れを体験させようと考えている、とのことだった。川の流れへのこだわりがすごい。
「リスクがある」と、控えることは簡単だ。だが「川の流れがどういうものか」を子どもたちが知っていなければ、「危ないのかもしれない」という予感さえ抱けない。本物はどういうものなのか、知って感じて、考えてもらう。そういうことを大事にしているのだなと思う。
「いい子」と「悪い子」はいない
子どもにはそれぞれ個性があって、発達の順番やスピードも違うし、それ自体ひとりの子の中でも変化する。園ではときどきトラブルが起きる。子どもたちは、他者と出会い、言葉を獲得し、育っていく中で「思い通りにならないこともある」ことを知る。驚くべきことに赤ちゃんは、「世界って基本的におれの思い通りになるっしょ、違うの?」みたいな感じで生まれてくるのだ。
だからイヤイヤ期があるし(2歳児は、いまブドウが食べたいと言えば、自然に冷蔵庫の中にブドウが顕現するぐらいに思っている)、お友達に嚙みついちゃう時期もある。本当は大好きなのに、「キライだよ」とばかり言ってしまう時期も、あったりする。
長男が年長だった頃、Yくんという、とても仲良しの友達がいた。ふたりはいつも一緒にいって、レゴをしたり、絵を描いたりしていた。Yくんはものすごく絵が上手くて、しかもものすごい量を描いていて、パラメータが完全に絵一局集中みたいな子であった。そんな二人だったが、ある時からケンカが増えてくる。うちの長男が他の子と遊ぶとYくんが怒る。でも、長男は別の遊びをしたい時もある。そんな中でYくんは、うちの子に「キライだよ!」「もう遊ばない」と言ったり、時には叩いたりするようなことも出てきた。
私は天才肌のYくんが大好きで、「うちの子は凡人だが、彼のような才能あふれる人間のそばにいることもまたいい刺激…」とか思っていたので、その話を聞いてしょんぼりしてしまった。そして、保育園に相談をした。私は、Yくんを叱責したいとか、引き離してほしいとか、そういうクレームを入れたいわけではないこと、本当は仲良くできるはずの二人なので、いい「合いの手」みたいなものを入れてもらって、見守ってほしいことなどをお願いした。そして、Yくんのお父さんお母さんも交えて、二人の関係を見守る周囲になろう。と約束した。
こういう時に、「園の指導が悪く起きた問題なので、すぐYくんの親御さんに連絡・報告します」といったことにならないのがとても良い。この件においても、「悪い子」は基本的にいないのだ。結局、ジワジワっとした我々の働きかけもあったのか、二人の関係はまた良好なものに戻った。
小学生になるにあたり、うちの長男とYくんは違う学校に進んでしまったが、保育園の同窓会で(そういうものがある)久しぶりに会ったYくんは、相変わらず絵が上手でかつすごくしっかり者になっており、「あの頃は申し訳なかった」とか、長男に言っていた。
人のありようというのは、結局はその周囲・環境に大きく影響を受けるのではないかと思う。どう迎え、どう相対するかによってその人のあり方は大きく変わる。これは昨今よく言われる「多様性」を考える際に、特にマジョリティ側に属する者が心に留めておかなければならないことだと思う。
ちなみに私の保育園には、外国人も障害のある子も通っている。もちろん「園が責任を持てる範囲で」などの判断基準はあるのだろうが、子どもたちにとって彼らと一緒に過ごすことは日常だ。「子どもは異質なものを排除する」などと言うが、少なくともこの保育園ではウソである。排除を許す環境になっていないかどうか、関わる大人は胸に手を当てて考える必要があるのではないか。
つい最近のことだ。卒園を控え、みんなと離れ離れになることへの不安や悲しみで、ナーバスになる子どももいた。小学校は、住んでいるエリアや家庭の事情で、年長クラス全員が同じ学校へ行くわけではない。子どもたちもだんだんとそのことに気づき始める。そこで保育園では、それぞれの進む小学校をぜんぶ、子どもたちで見に行く。クラスからひとりしか進学しない私立の小学校でも、クラス全員で見に行く。そうすると、自分が進学することに誇りが芽生えるらしい。みんなに「すてきだね」って言ってもらえることで、不安や寂しさより、「一年生になるんだ」という期待や喜びが勝ってくるのだと思う。毎年やっているらしい(長男も私も忘れていた)が、よく考えたなあ。子どもたちをよく見て知っていないと、出てこないソリューションだ。
こんな風に、保育園のすばらしさを数え上げていくとキリがない。約10年、ほんとうにお世話になった。子どもとは、人間とは、についていろんなことを教わった。長男が泣き虫で困った時も、次男の言葉が遅く悩んだ時も、丁寧にやさしく相談にのってくれた。このような保育園があることは、この国にとってひとつの希望だなと私は思っています。そして、どうしても「教育」という題目の基に「統率」「管理」に偏り、一人ひとりを見ることが難しい日本の公立小学校は、もう少しこの園のように変わっていけないだろうか、とも感じている。
長男と次男が、保育園にもらった「大きく確かな存在肯定」は、これからの人生でもずっと、彼らの心のいちばん根っこの部分になり、彼らを支え続けることだろうと思う。
本当にありがとう、大好きな保育園。