kobeniの日記

仕事・育児・目に見えない大切なものなどについて考えています。

7/27 session「共生社会とインクルーシブ教育の行方」と和光学園の障害児教育について

12/31のDOMMUNE第一部に出演した際、荻上チキ氏が同番組出演のオファーを断った、という説明が主催の宇川直宏氏からなされた。その際、私は「彼の(小山田圭吾氏に関する)取り上げ方には納得がいってない」というようなことを述べた。だが、具体的に「何に納得していないのか」を丁寧に説明せず、言葉足らずのまま批判の姿勢だけ示してしまったため、私が、荻上氏がパーソナリティを務める「session」の放送内容の何に違和感を覚えたのか、ここにもう少し詳細を書いておこうと思う。

 

※2022 1/6追記

オファーに対し登壇を断ったことを発表していい方と良くない方がいたようだが、チキさんは「発表して頂いて構いません」とは述べていなかったらしい。当時のライター村上さんは、辞退の理由の手紙を読み上げて構わないとのことだった。

許可が取れていないのにオファーを断ったことを発表するのは、マナー違反だと思う。

登壇者のひとりとして、許可が取れていると思って発言してしまったことをお詫び致します、申し訳ありません。

 

 

 

 

私が「納得していない」と述べたのは、2021年7月27日に放送されたラジオ番組「session」の下記の放送だ。

番組冒頭部分のみ、一部書き起こしを掲載する。

(アーカイブはこちらから聴くことができる)

https://www.tbsradio.jp/articles/42102/

 

 

N=ゲストの野口晃菜氏

T=荻上チキ氏

H=南部広美氏

 

H:二週連続企画 共生社会とインクルーシブ教育の行方

 

辞任した小山田圭吾氏の障害者いじめ問題をきっかけに考える

 

先週、オリンピックの開会式で、楽曲制作をする予定だったミュージシャンの小山田圭吾氏が、過去の雑誌で、学生時代に障害のある生徒らをいじめていたと、露悪的に語っていたことが問題視され、楽曲担当を辞任した問題。この問題を受け、知的障害者の親らでつくる全国手をつなぐ会育成連合会や、障害者の当事者団体で作るDPI日本会議が、批難する声明を発表。DPI日本会議の声明では、この問題を機会として、インクルーシブ教育とはどういうものであるのかを考える契機にすべきであるとしています。障害者と健常者が共生する社会を、どう作ればいいのか。先週に引き続き、今日はこの問題をきっかけに考えます。

 

(中略)

 

N: 小山田さんの記事は実はだいぶ前に読んでいて、すごくショックを受けたのを覚えています。昔の話だからとは割り切れずに、今もでも同じことが起きてもおかしくない状況にあるというのを、学校現場を見ていて思うこともあるので、やらなければならないことがたくさんあるなと思いました。

 

T: これをきっかけに、多くの議論というものが起きたわけですけれども、一方で、現在でもこういった問題が起きてもおかしくないということですけれども、それはどういったような出来事が起きてもおかしくないとお感じなのですか。

 

N: 小山田さんがいらっしゃった学校の状況というのはわからないんですけれども、一連の記事を拝見していて、もしかしたら、何の工夫や配慮もなく、障害のある子と障害のない子が、ただ同じ教室で一緒に過ごすという「ダンピング」と呼ばれる状態があったのではないのかなと感じています。学校教育は、どうしてもマジョリティー・多数派仕様に作られているので、少数派である子ども達が、そこになんの工夫もなくポンと入っても、同じ学級経営とか授業作りが続けられていたら、障害のある子は「クラスの一員」というよりはお客様状態になってしまうんですね。今でもそういった状況というのはよく見られます。

 

T: ダンピングという言葉が出てきましたけれども、これはどういった意味ですか。

 

N: 「投げ捨て」という風に日本語だと訳せると思うんですけれども、例えば読み書きに障害のある子どもがいた時に、その子が通常の学級にいた時に、これまでと同様に、板書をただノートに写すとか、そういうことが当たり前の授業だったら、その子はその場にいても、学びにアクセスすることが難しくなってしまうんですよね。こういった状態をダンピングといいます。

 

(書き起こしここまで)

 

小山田氏は、7/16に出された謝罪文の中で、問題と取り沙汰された雑誌記事には「事実と異なる内容も多く記載されている」また「誤った内容や誇張(がある)」ことを述べている。

 

「記事の内容につきましては、発売前の原稿確認ができなかったこともあり、事実と異なる内容も多く記載されておりますが、学生当時、私の発言や行為によってクラスメイトを傷付けたことは間違いなく、その自覚もあったため、自己責任であると感じ、誤った内容や誇張への指摘をせず、当時はそのまま静観するという判断に至っておりました」

7/16に出された謝罪文より

https://digital.asahi.com/articles/ASP7J67FTP7JUTIL03F.html

 

 

よって、関連報道がなされるにあたっては、まず前提として「巷に流れている情報には、事実ではない内容や誇張が含まれている」ということに注意が払われるべきだろう。

 

本件について野口氏は、「小山田さんがいらっしゃった学校の状況というのはわからないんですけれども、もしかしたら、何の工夫や配慮もなく、障害のある子と障害のない子が、ただ同じ教室で一緒に過ごすという『ダンピング』と呼ばれる状態があったのではないのかなと感じています」と前置きして、あるべきインクルーシブ教育について語っている。

そもそも小山田氏のいじめは、40年前の出来事だ。小山田氏が通っていた学校が、日常的に「ダンピング」を行っていたのかどうか、野口氏や番組によって裏取りされているわけではない。野口氏は、「小山田氏の学校の状況はわからない」かつ「今でも同じことが起きてもおかしくないと、学校現場を見ていて思うこともある」と語っている。つまり「現代の、別の学校現場」の話をしたいのであって、小山田氏と、小山田氏が在籍していた学校の話は、自説(=あるべきインクルーシブ教育)を訴えていくための「枕」に過ぎない。

「もしかして『投げ捨て』があったかも?」と思っただけで、実際にそれがあったとは言ってないので問題ないと、野口氏はお考えだったのかもしれない。だが、かつて通った子どもたち、そして、今も通う子どもたちがいる学校に対して、障害児を「投げ捨て」ていたのでは?と憶測でラジオで述べることに、私は非常に疑問を持った。

 

まさにこの放送があった7月末、Twitterでは、和光学園の、生徒への広報用公式アカウントには無数の心ない言葉が投げられ、#和光学園 のタグでは事実か否か確認ができないツイートも無数に流れていた。小山田氏の息子、米呂氏も和光学園の卒業生だが、「彼もまたいじめっこだった」という噂も流れていた。現在の学園を咎めるような内容に心を痛めた現役在校生達(中学生や高校生)が、見かねてアカウントを取得し「和光を悪く言うのはやめてください」「今の和光に、いじめや差別はありません」とツイートするような事態になっていた。

 

和光学園への中傷はその後、8月になっても続いた。

 

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※今はもう、このツイートの何が事実誤認で問題があるかお分かりだと思う。

 

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※このツイートをしたアカウントは、息子の米呂氏もいじめをしていたと吹聴していたが、ツイートは7月で停止している

 

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※和光の在校生のツイート。ちょうど、夏休みに入るか入らないかのタイミングだった

 

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※和光の在校生のツイート。

 

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※和光の在校生のツイート。


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※和光の在校生のツイート。

 

 

個人的に、2年前に息子と共に学園を見学したことがある私は、現在の和光学園を根拠なく悪く言われることに憤りや疑問を感じ、明らかな迷惑行為、誹謗中傷に対しての通報を呼びかけた。

 

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SNSを見るだけでも、40年前とその後、現在を切り離せない人たちがこんなにもたくさんいるとわかる。「なぜ学園について、現役生の言うことではなく、匿名で何者かわからない人たちの言い分を信じるのか?」など、子どもたちの言っていることは正論で、私は大人としてとても恥ずかしいと感じていた。

番組を聴いて、学園の関係者や在校生、たくさんの卒業生らがどのように思うか、現在や今後の和光学園にどのような影響があるのか、番組スタッフの皆さんは想像されただろうか。

(かなり傷ついて参っているな、と感じる生徒さんには直接DMで連絡を取り、SNSからしばらく離れた方がいいと伝えたりもしていた。学校側はSNSを見るなと通達していたそうだが、どうしても我慢ならなかった子どもたちにも同情してしまう)

 

もし、「学園にとって都合が悪くても報じるべきことがある」という思いで実施されたのであれば、まず和光学園に取材して、彼らの言い分も併せて伝えることが、フェアな報道姿勢ではないかと思う。

 

 

和光学園の、障害児受け入れに関する独自の試行錯誤について

 

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上記も、7月に流れたツイートだ。

「インクルーシブ教育」が広く知られたのは、2006年の国連「障害者の権利に関する条約」の採択後だが、世界的に見ると80年代ごろから既に語として用いられ、論じられていたようだ。

だが、和光学園が設立されたのは1930年代。大正時代の「新教育運動」の中から生まれた私立の学校で、そこから現在に至るまで、障害のある児童も通常学級へ受け入れるという教育方針を続けている。

1974年、当時の校長である丸木政臣氏によって、創設以来実践されてきた教育方針に対し「共同教育」の名が付けられた。要するに、「インクルーシブ教育」という概念が日本に浸透するよりもかなり前から、障害児と健常児との共生についての実践と試行錯誤を行い、現在に至っている学校なのである。

和光学園での実践を、歴史的に「インクルーシブ教育の萌芽」と位置付ける論文もある。

 

 

4 .和光学園の「共同教育」と教育実践改革─ インクルーシブ教育の萌芽として

 

和光学園は障害児を無差別に受け入れているわけではない。自らの教育的力量や障害児を受 け入れる学級の集団実態を勘案して 1 ~ 2 名の 範囲内で受け入れている。また受け入れた障害児は責任をもって可能な限りサポートをつけている。

(中略)

 

学校内のひとつの学級が障害児を受け入れた際,他の学級や他の教師が関与しないような学校風土のなかでは,こうした取り組みは成功しない。学校全体が障害者差別をゆるさない学校 風土,学校が一つの民主的な集団となっているとき,成功するといえる。

 

和光学園における「共同教育」の提唱と盲児の統合教育 ─映画『みんなでうたう太陽のうた』(1978年)─

 

http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/2965/1/0080_016_004.pdf

 

たとえば和光小学校には「補助教員やサポートスタッフはいない」「日常生活では基本的に児童同士で協力しながら生活を行う」「ただし行事などでは必要に応じて支援要員がつく」「学校にはバリアフリーの補助設備が充実しているため、無理に『自助・共助』を強いることはない」等といった特徴がある。つまり、「どこまで障害児のために大人が補助やサポートを行うか」について、歴史的な実践に基づいた独自の考え方を持っているのだ。

 

下記は今年の8月ごろ、小山田氏と同時期に在学していた卒業生(現在もお子さんが在学中で、足掛け40年にわたり和光学園の歩みを経験されてきた立場)の方に、和光の共同教育について質問した際、いただいた回答の一部だ。

 

今、和光学園の教育をめぐる批判の一番の問題は、和光学園が実践してきた教育方針が、「インクルーシブ教育」とはその出自や歴史を異にしてきた事実が、詳細に伝わっていないことではないかと思います。

 

もちろん「共同教育」にも当然課題はありますが、「一緒に生活することによってしか感じられない様々な不便、不都合、不快、違和感、葛藤、軋轢」を共有することで、現実の問題として解決したり、折り合いをつけたり、闘う相手を見定めたりしていく教育なのだと思います。

和光は、半世紀以上ずっと試行錯誤しており、常にもがき、模索しているのは間違いありません。

そのなかで、当事者である生徒が「教材」になる(健常者の学びの材料として、人身御供のようになり、疎外感や苦しみを感じてしまう危険は常につきまとう)リスクを認識しながら、どうすれば解消できるのか必死でもがき、でも少しずつ改善して今日に至っていると思っています。

孤立、失望、悲しみを感じている人を放置しては、この理想は偽善になってしまいますが、放置しない、許さない、という信念だけは変わらず和光の先生方も同窓生も持っていると思います。そこは変わっていません。道は遠く、険しいですが。

 

インターネット上で検索し入手できる各種の論文や、数名の在校生・卒業生の言葉を聞く限り、和光学園が「ただ同じ教室に生徒同士を放り込む」教育方針を取っているようには、私には感じられなかった。

共同教育の試行錯誤の中で、それを「ダンピングだ」と感じて去っていった保護者や卒業生も、もちろんいるだろう。だが「ダンピング」になる危険性は常に認識しつつ、それでも日常生活のなかでの葛藤や衝突を恐れずに、お互いの人間理解を深めていく共同教育を捨てずにいる……というのが、和光の現状であると思う。

 

小山田氏が在籍していた頃の教師は現在、全員退職している。だが論文や証言を参照すると、当時から基本的には今と同じ理念を掲げ、試行錯誤していたことがわかる。それらを自ら調査することなく、当時の学園を憶測で「ダンピング」と結び付けて語るのは、やはり配慮に欠ける行為ではないだろうか。

 

 

12月の終わりに、7月末の特集を蒸し返して……と思われる方もいるだろうが、野口氏による「小山田圭吾氏を見出しに利用したインクルーシブ教育の持論展開」は、10月にも文春オンラインにてあらためて行われている。

 

bunshun.jp

 

 

この無料記事にフックとして、本文には全く出てこない「小山田圭吾」がついている理由は、本記事ライターの「ダブル手帳」氏が自らツイートで明らかにしている。

 

 

 

8月に指摘しておけばよかった、そうすれば10月に改めて同じような記事を配信されることもなかったかもしれない。いま私はそのように思っている。卒業生である小山田氏の在学中のできごとをめぐる今回の問題について、和光学園は7/23以降、コメント等を出してはいない。積極的に何か述べることで、卒業生や在校生を二次被害的に傷つけることを恐れている可能性もあるのではないか。学園が自ら「誤解を招く報道はやめてください」と述べることは、今後も難しいかもしれない。

 

ロッキング・オンの「うんこを食わされた」いじめられっ子は実在していない。クイック・ジャパンで語られた、小山田氏にいじめられた障害児は、確かに実在する。だが、現在52歳の小山田圭吾本人や、和光学園の関係者、在校生、そういった人たちもまた「実在する」。「枕」や「きっかけ」化する際は、彼らの心情、人権にも注意を払っていただけたらと思う。

 

 

 

私はもともと、「session」を毎日聴くぐらいのファンだ。小山田圭吾氏をめぐる問題を、後に明らかになった事実も踏まえ、あらためて特集化してもらえないだろうか。sessionの視聴者には、正義感や高い倫理観があるが故に小山田氏を強く批判した方(「孤立無援のブログ」を信じてしまった方や、後日明らかとなった捏造の事実は知らない方)や、五輪開催に反対する中で、小山田氏を「身勝手な政府の御用ミュージシャン」と勘違いした方もいるのではないかと思う。実態は全く異なる。できればそういったリスナーの誤解を解いてもらいたいのだ。私はこの記事を、「session」に対する期待と共に書いている。

どうか、よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

参考:sessionの企画の冒頭で、いくつかの障害者団体の声明が紹介されているが、「日本自閉症協会」もまた、本件に関して声明を出した団体のうちのひとつだ。

http://www.autism-japan.org/action2/2021/20210806seimei.pdf

 

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「当協会はネットで引用されている情報だけで判断するべきではないと考え、問題となった 30 年ほど前の二つの特集記事に目を通したうえで考察することにしました」

 

から始まる本声明文に私は大変驚き、感謝と共に寄付を申し出たのだが、現在時点で寄付は不要です、その代わり例えば自閉症啓発デーなどに、障害について考える契機として支援・関心を寄せて頂ければ嬉しいです。といった丁寧な返信を頂いた。

それ以降、私はずっと「4/2は自閉症啓発デー」と繰り返し思い出すようにしている。ニュースは一瞬で「わかった気になる」のではなく、関心を持ち続け、その本質はどこにあるのか?問い続けることが、最も大切なことだろうと思うからだ。