kobeniの日記

仕事・育児・目に見えない大切なものなどについて考えています。

おふくろの○○

お正月休みに、録画してあったドラマ「ゴーイングマイホーム」をまとめて観ました。去年の後半はなにかとバタバタしており、5話あたりからリアルタイムで観られなかったので、休み中に最終回までまとめて観ました。
ドラマの中に、郷土料理の「すいとん汁」が出てきます。それを見て「そういえば小さい頃、お母さんがすいとん汁をつくってくれたことあったなー」と思い出しました。
ドラマの中に出てきたすいとんは、ちいさくてまんまるくて美味しそうだったのだけれど、私の記憶にあるすいとんは、なんだかもっと巨大なかたまりで、これすいとんじゃなくて鬼まんじゅうじゃないの、という感じのものでした。しかも「あんまり美味しくなかったなー」という。
けれど、それはけして嫌な思い出ではなく、やはり懐かしい「おふくろの味」のひとつなのでした。


私の母は料理が苦手な人で、炊事に関して「ホントはやりたくないけど仕方なくやってる」感を常に漂わせていました。味噌汁のお腕から、だしパックがまるごと出てきたこともあったし、出された里芋が煮えておらず口の中が「イタイイタイ!」となったこともありました。そのくせ彼女は自然食品や流行り物の調理器具が好きで、なぜか我が家はご飯がデフォルト「胚芽米」だったのでした。近所の幼なじみの家で白いご飯(ふつうの白米です)を食べたら、すごく美味しくてビックリしたものです。実家には一度しか使われていないであろう、パン焼き器や栗原はるみグッズ的なものが少なからずありました。そういえば、「ゴーイングマイホーム」で山口智子さんが演じた沙江も私と似たような境遇で、母親の料理が下手なのが辛く、その反動で自分はフードスタイリストになったのだ。と述べるエピソードがありました。私はそこまで反面教師にしてはいないものの、やっぱり料理はもう少し上手くなりたいし、上手い方がいいだろう、とはいつも思っています。
子供との生活と料理はとても縁が深いものです。食事は毎日のことだし、食卓は家族がコミュニケーションを取るのに最も適した場だと言えます。だから、「おふくろの味」があるに越したことはないし、料理が好きで、子供に美味しくつくってあげられるのはとっても良いことだと思っています。
一方で、私がすいとんのことを懐かしく思い出すように、たとえそんなに美味しくなかったとしても、それはそれでひとつの思い出になるものです。そして、子供に残す「おふくろの○○」というのは、必ずしも料理でなくてもいい、という風にも思います。
うちの母の場合、料理はからっきしでしたが、「この家、本の雪崩がおきたら死ぬな」というくらい読書をする(そしてあまりキチンとしまわない)人で、私のための絵本や童話全集もたくさん揃っていました。また、四季の行事ごとをキチンとやってくれた思い出があります。七草をちゃんと食べるとか、ゆず湯・しょうぶ湯に入るとか、そういうことです。また、実家ではよくリビングや玄関に花を飾っており、私もその影響で花を飾る習慣ができました。




もうボロくなっているのですが、子供の頃読んでもらってた絵本を今は息子に読んでます


「おふくろの○○」は、もっともっと些細なことでもいいんだと思います。「剥きにくい蜜柑をひたすら剥いてくれた」とか、「夜中に『うさぎさんの大冒険』を即興で話してくれた」とか、そういうのでいいんです。考えてみれば、お母さんにも一人ひとり個性があるわけで、その人らしい「おふくろの○○」を子供にしてあげるのが一番ですよね。「おふくろの熱唱」でも「おふくろのまどマギ論」でも「おふくろのiPhoneアプリ」でも、なんでもいいんじゃないかなと思います。
料理が嫌いな母は、その時間があるなら本を読んでいたい、とひたすら読書していたのですが、料理の時間をあまり割いてもらえなかったから、私が不幸だったかというと、必ずしもそうでもない気もします。彼女が本で蓄えた知識は、私に「気の利いた人生のアドバイスをする」という形で返ってきました。私は母に、「早く結婚して孫の顔を見せて」的な、ある種大人のテンプレっぽい小言を言われた経験は一度もなく、問いかければもうちょっと変化球が飛んでくることが多かったです。色々と理屈っぽく考えがちな思春期に、彼女に議論をふっかけても必ず負けるので、こちらもふっかけがいがありました。


その人(父、母)の何が、結果的に子供にとって、良き「おふくろの○○」になるのかは、意外と後になってみないと、わかんないものなんですねえ。


ただ、当たり前かもしれませんが、おふくろの側としても、「子供が喜んでいるのかどうか」はいちおう、観察しなければなりません。子供が「趣味じゃない」と言っているのに、やたら自分の好きなタイプの洋服をつくって着せる、とか。下手すると「ニシンのパイ」的な悲劇を生むことになってしまいます。いくら自分が好きだからといって、毎度オカンアートみたいなものを自己満足的に渡されては、子供もイヤになってしまうのではないか…と思います。

まあでも、子供がまたおふくろぐらいの年になってくると、ちょっとくらいダサくても、親がくれた服を着て会いに行く。くらいのことはできるようになりますけどね。親心を着る、という感じでね。


「ゴーイングマイホーム」で、プロの料理人である沙江の料理が「おふくろの味」になった、つまり沙江が「おふくろの味」のなんたるかを悟ったのは、ドラマも終盤の頃だった…と思います(沙江には一人娘がいます)。ベタな話ですが、「ホーム」をつくるのも、「おふくろの○○」をつくるのも、形式や体裁ではなく、気持ちがどこへどのように向かうかが大事。ということなのでしょう。それにしても(低すぎる視聴率とは裏腹に)色々と心に残る台詞のある良いドラマだったので、未見の方はぜひ、今後DVDなどで観てみてください。

あなたは、どんなタイプのWEB女子ですか?「久谷女子便り」第五号出るよ!


※通販も始まりました!こちらからどうぞ。

久谷女子便り第五号『いま、改めてWEB女子とは何か』 - 久谷女子 | アリスブックス



みなさま、お久しぶりです。今年も、大規模なイベント(冬)の季節がやってきましたね。きょうは告知です!WEBをこよなく愛するこじらせ女子集団「久谷女子」のコラム本最新号が、冬コミで販売(頒布?)されます。私は前回の四号「WEB女子と萌えについて」から参加している新入りなのですが、今回も豪華なメンツに混じってコラムを書かせて頂いています。

久谷女子便り第五号のテーマは、「いま、改めてWEB女子とは何か?」です。表紙や中のデザインも一新したリニューアル号で、ボリュームはこれまでの倍の80ページ!となっています。


WEB女子=WEBを活用している女子、というだけでは、その存在が珍しくなくなってしまった昨今。それでも「私はWEB女子です」と名乗り続ける我々は、いったい何者なのか?この時代にWEBを愛し、かつ女子であることは、いったいどういう意味を持つのか?メンバー一人ひとりが真摯に考えているのが今回の第五号です。「私も昔からWEBが好きだけど、それがどうしてなのかよく分からない。ちょっと知りたい」という人や、「女性っていうより『女子』って名乗る方がしっくり来る。けど、それとWEBって関係あるのかしら」という人は、読むとなにかモヤモヤがスッキリするかもしれません。
私は今回、自分の黒歴史を語ってみました。ブログだとちょっとなんか恥ずかしくてできないなと思ったのですが、田舎から東京に出てきて色々あって(挫折とか挫折とか挫折とか)、それが今の(WEB好きな)自分にもつながっているような気がしたので。同世代で地方出身の人などには、もしかしたら共感してもらえるかもしれません。書いていて、「私ってすごく90年代的な人間だな…」と思いましたけど。

インタビューやゲストも豪華です!まず、はてな村の皆さんに注目して頂きたいのは、社長(jkondo)と村長(kanoseさん)がインタビューに登場しますよ、ということです。そう、久谷女子は、はてなが大好きなのです!近藤さんがいかにして伏し目がちな男子から、表参道にオサレオフィスを構えて人前でもプレゼンできるようになったのかがじっくり語られています(語られてるか…?)。また、「狙った獲物はブクマする」村長が、人類最強のヲチ術をじっくり語っています。たまに村長に無言ブクマされるとこう…背筋が冷たくなる…いや背筋がピンとなりますよね!
あとは、巻頭にはあの、はあちゅうさんのインタビューが。これを読んで、私もはあちゅうさんのファンになってしまいました。そしてまみぺこさん、もぐもぐさん、灰色ハイジさんなどゲスト女子もとっても豪華です。

チラ見せがこちらにあるので、試し読みしてみてくださいね!
<刊行物>久谷女子便り第五号 | Facebook



■ WEB女子なのに紙メディア?イベントがあるそうです

久谷女子の皆さんはマスコミ関係で活躍されている方が多いので、文章とか編集作業に皆が長けている感じがあり、本誌も「プロが本気でつくった遊びの本」みたいな感じの仕上がりになっています。ちょっとした裏話でいくと、編集作業などもオンラインをものすごく駆使して進められています。けれど「久谷女子便り」自体は、メディアはずっと紙です。私にはなんとなくその理由が分かる気がするのですが、そのあたりの話は、29日のリアルイベントで語られるみたい。(ご紹介して、既に満員になってしまってたら、すみません)
イベントについては、詳しくはこちらをどうぞ。登壇される岡田育さんの記事です。行けない方は、ハッシュタグを見るとよいかもしれません。
12月29日(土)下北沢B&Bイベント出演 | okadaic.netokadaic.net


■ ポスドクのあなたも注目!「博士メガネ男子本」も出るよ

久谷女子の中には「メガネ男子同好会」という分科会がありまして、そちらも新刊の薄い本を出します!前回は、芥川賞を取った田中慎也さんに全力で萌える「不機嫌メガネ男子本」だったのですが、今回は…「二人目のシンヤ」、山中伸弥教授に全力で萌える、ノーベル賞受賞記念「博士メガネ男子本」です!

そういえば「不機嫌メガネ男子本」で文フリに出た時、女子が多く買って行くのかな?と思ったら、男子もたくさん買いに来てくれました。まあ、皆さん、もれなくメガネかけてましたけどね…。今回も、文系理系問わず「研究職」とか「ハカセくん」って僕のこと?という男子の皆さんは、ぜひ買ってみてください。そしてメガネをかけてください。前回好評だった「メガネ男子マトリクス」、今回もありますので、「わー僕はここだー」「私の彼氏・夫はここだー」「私の博士(二次元)がいないとは何事!!」といった感じで、年の瀬を盛り上がることができます。ちなみに私はこちらでは「考古学非常勤講師 草壁タツオ」について熱く語っています。※トトロのお父さんです


長くなってしまいましたが、この「久谷女子第五号」と「博士メガネ男子本」が買えるのは、コミケ3日目東パ28bです!過去の総集編の販売もあるようですよ!皆様、ぜひどうぞよろしくお願いします。


久谷女子公式twitterアカウント 
久谷女子[通販中] (kutanijoshi) on Twitter
「久谷女子ってなに?」という方はこちら
WEB女子による同人サークル「久谷女子」とは何か - NAVER まとめ
はあちゅうさんのブログ記事でも紹介されています
久谷女子5号にてはあちゅうインタビュー掲載|伊藤春香オフィシャルブログ「はあちゅう主義。」

今、あえて「ポニョ」のリサについて熱く語る

皆さんは、この夏の話題作「おおかみこどもの雨と雪(リンク:映画「おおかみこどもの雨と雪」)」をご覧になりましたか?
私は公開して割とすぐに観て、感動してラストでボロボロ泣きました。ちょうど幼児の子育てまっただ中ということもあり、高いシンクロ率で鑑賞できたせいかと思います。あの作品はとても良かったと心底思っているのですが、観賞後からしばらく経って、主人公である母親「花」のことを考えれば考えるほど、「(「崖の上のポニョ」の)リサの方が好き!」という気持が募り、8月の金曜ロードショーのポニョ放映でその愛がMAXに達してしまいました。

せっかく、アニメの中の母親に興味を持ったので、リサについてもっと理解したい!と思い、お盆休みから、計12時間半もあるポニョの制作ドキュメンタリーを観ておりました。ドキュメンタリーといっても、その大半が「絵コンテを描く宮さん(宮崎駿)」と「原画チェックをする宮さん」の映像なのですが。
毎晩それを観続けた結果、「へー、宮さんって愛妻弁当のおかずをワンタンスープにつけて食べるんだー」とか「宮さんって、誰もいないアトリエの暗がりに向かって『おはようございます』って挨拶するんだー(←怖い)」とか、どんどんパヤオヲタになっていく自分がちょっと怖かったです。
通して観るだけでも大変だったのに、この12時間半のうち、リサがクローズアップされることはほとんどありませんでした…orz とはいえ作品についての理解はかなり深まったので、今あえて「崖の上のポニョ」のリサについて熱く語る!というのをやってみたいと思います。「おおかみこども」の花も、ちょっと出てきます。※長いです、すいません。しかしこの記事なら12時間半はかかりませんので、おつきあいください。



■少女のような、色気のある、お母さん

リサという人は宮崎アニメの中では、希有なキャラクターであると思います。宮崎アニメには女性キャラがたくさん出てくるし、主人公が女性であることも多いです。その中で「母親のような少女」はたくさん出てくるけれど「少女のような母親」はあまり出て来ないからです。

宮さんは人物を描く時に、その人を多面的に描いて深みを出すところがあると思います。女性なのに強い権力欲があるとか、少女なのに虫が好きとか、おばあさんなのに活動的とか。すばらしい人物には欠点があり、悪者にも愛すべきところがある、などのギャップがキャラクターの魅力を増しています。「少女なのに母親っぽい」もそのひとつ。子供たちに頼られ包容力のあるナウシカや厨房を取り仕切るシータ、実の母よりしっかり者のアリエッティなど、まるで母親のように成熟した一面を見せる少女はよく出てきます。
けれど、その逆の「母親なのに少女っぽい」キャラは、あまり出てきません。お母さんのキャラで目立つのは、魔女の宅急便のオソノさんや、ラピュタの親方の奥さん、ドーラのような「肝っ玉母さん」系。あるいはトトロのお母さんのような「病床の母」。これらはおそらく宮さんのお母さん(勝ち気な人だったそうです。宮さんが小さい頃、ずっと病気を患っていた)がモデルになっていると思われます。
もっと言うと、宮崎アニメの女性キャラから「(異性にアピールする存在としての)女」を感じることはあまりないような気もします。リサは母親だけど、少女らしさと女らしさも持ち合わせている点で、珍しいキャラクターだということです。



こういうとこは少女っぽい(「千と千尋」の千尋と同じ寝方ですね…)


これは新妻っぽい(夫の船が帰ってきて、金麦妻のように喜ぶリサ)

孫引きになってしまいますが、エヴァンゲリオンの庵野カントクと、ジブリの鈴木プロデューサーは、過去にリサについて下記のように語っています。


庵野・お母さんが宗助を置いて車で行っちゃうじゃないですか、で二人きりになるあたりから、まあ、あんまり乗れない感じ。それまではすごいよかったですよ。特にあのお母さんがいい。
鈴木・色気がありすぎるんじゃないか。
庵野・いや、それがいいんですよ。いままで宮さんになかったものじゃないですか。
鈴木・宮さんがね、あれは近藤勝也(作画監督)がやっていて俺じゃないからって。
庵野・そうそう、それがいいんですよ。いままでの宮さんにはできなかったこと。
鈴木・すっごい色気があるんだよね。
庵野・いいですよ、線だけでそれを出しちゃう。宮さんが手を入れてないところが良かった。あれにまた手を入れ直したらぶちこわしだったのを、そこをグッと抑えているのが大人になったというか、年を取った。
鈴木・さすがだな〜、よく見てる。(笑)

庵野秀明愛ゆえに宮崎駿を斬る!: シンジの“ほにゃらら”賛歌


■ 母である前に、一人の人

少女らしさや女らしさを残した母親を描くには、作り手が視点を子供側から親側に持たなければ難しいと思います。なぜなら、母親というものは基本的に、その子供に「少女らしさや女らしさ」など見せないよう振舞うからです。子供側の視点で母親を見ている限り、その人物が少し前までは女として人と愛し合っていたとか、さらに前は彼女もまた「娘」であったとか、そういうことはなかなか想像できないし、さして知りたくもない部分ではないかと思います。
おおかみこどもの雨と雪」には、ひとりの女性が母親になる前後の過程が丁寧に描かれています。細田監督自身が親になる年齢に近づいてきたことで、「それまでふつうの女性だった人が母親になる」という過程をドラマにしよう、と思えたのではないでしょうか。
実際に親になってみると、親もまた、ただの未熟な人間で、なんら完成された存在ではないということが分かります。自分の母親もまた、悩んだり試行錯誤して私を育てたんだろうなあと、親を一人の人間として見られるようになってきます。そういう視点から描かれるアニメがあってもいいだろうと思うのですが(アニメ以外のジャンルではさして珍しいことじゃない気もしますし)、作り手の年齢が親側に近づいてこなければ、なかなかそうは思えないかもしれません。

庵野カントクは宮さんを「年を取った」と評していますが、リサというキャラクター自体、晩年の宮さんだからこそ出てきた存在なのかもしれません。年齢的には既に、祖父の立場といえますから。



■ ピンクの花、青のリサ

リサは、息子に自分を「お母さん」や「ママ」ではなく「リサ」と呼ばせています。いちど「ママ」と呼ばせてしまえば、庇護する親−される子、という関係は日々どんどん固定されていく気がしますが、名前で呼ばせることで「私は母親である前にリサという一人の人です、あなたもその人と一緒に暮らす一人の人です」という印象がグンと増します。私もときどき、理不尽過ぎる息子のワガママに「君さ、この家のメンバーシップを無視したようなその発言はどうなの」とか言いたくなる時がありますが(言いませんが)、実際にマネするかどうかはともかく、映画においては象徴的であると思います。
「おおかみこども」の母親である花は、田舎に引っ越す前に、まだ乳幼児の子供たちに向かって「ねえ、これからどうしたい?」と聞きます。もし、いわゆる「母親」を強調するなら、あの場面では「お母さんね、あなたたちを連れて田舎へ引っ越そうと思うの。その方が、あなたたちにとっても良い未来になると思うからよ」といった台詞になるはずではないでしょうか。友達に話しかけるようなあのシーンは、母親になりかけていて、まだなりきれない彼女の、「一人の人」っぽさがよく表されていると思います。

ところでリサの「色気」って、いったいどこから感じられるんでしょう。また花との比較になりますが、細田監督が花に色気を加えたのは「農作業のシーン」らしいです。…確かに、畑を耕す時に、パンツがちょっと見えてました。リサは、あのトレンチコート(レインコート?)とか、サブリナパンツかもしれません。「麗しのサブリナ」といえば、ヘプバーンがパリ生活で大変身し美しくなって戻ってくる話ですが、リサには、「母親である前に女」の国・フランスのエッセンスがちょっと入っているのでしょうか。
リサは、服は青いのですが、車とエプロンがピンク色です。花は、全体的に服がピンク色。「少女」のエッセンスが、ピンクに残っている気がします。



■ 宗介一家がうまれた背景

ポニョのドキュメンタリーによると、リサはイメージボード(絵コンテより前の、作品の世界観をざっくり表したイラストの状態)のかなり初期の時点で、既に存在していました。紺色のピッタリした服を着て、不機嫌そうな顔をしているイラストがありました。
そんなに初期から居るのに、ドキュメンタリーでリサの話題はほとんど出てきません。彼女のことを知るには、その周辺情報で想像していくしかありません。
ポニョの舞台は、宮さんが書いた「覚書」(スタッフに世界観を伝えるための文章)によれば
「現代の日本を、ちょっと理想化する」と定義されています。
そして宗介一家について宮さんは、「作画監督の近藤さん一家」がモデルと言っていました。ちなみに、ポニョは、近藤さん家の娘さん(制作当時3歳)がモデルになっているそうです。
近藤勝也さんは、先述のインタビューにも出てきましたね。ポニョでは宮さんの次に偉い人くらいの立場でお仕事されていました。たぶん、毎晩帰りは遅かったことでしょう。リサが、「きょう帰れなくなった」と残業を告げる夫にブチ切れるシーンがありますが、あれは…近藤さんのことではないかと思います!近藤さんの奥さんがリサみたいな人なのかは不明なのですが、もしかしたら夫に「BAKAAAAAA」と言えるくらいは勝ち気な奥さんなのかもしれません。いずれにせよ、リサのキーを握るのは近藤さん、ということは間違いない気がしますね…ぶっちゃけ、いかにも奥さんにBAKAAAAって言われてそうな(言われてもニコニコしてそうな)優しそうな方でした…
(※この、キュートなキキを描いたの近藤さん)
新居浜物語(新居浜市公式ホームページ) > 新居浜市制75周年記念事業「ジブリの動画家 近藤勝也展」

おそらくですが、宮さんにとって、リサは「理想のお母さん」ではないと思います。映画の後半に出てくる、赤ちゃんを抱っこした、昭和のお母さんみたいな人を描いている時の方が、イキイキしてました。現代の母親とそのライフスタイルを、リアリティを持って描いた結果、あの家族の形にたどり着いたのではないかと想像します。
いっぽうで宗介には、幼年期の自分を重ねるくらい、思い入れている感じがしました。宗介を育てているのはリサですから、おのずとリサにも、ある程度の理想を込めて描くことにはなると思うのですが。



■ リサの子育てメソッド

宗介を魅力的な主人公にするためには、実質ひとりで子育てをしているリサの子育てメソッドが魅力的である必要があります。

宗介は、水道タンクがあるから水が出るとか、プロパンガスだから嵐の夜でもガスが使えるとか、そういうことを良く知っています。自分で火もつけられるし、サバイバル能力みたいなものを持っています。嵐の夜の、リサの行動を見ていると、ああいった自然の中に暮らす人ならではの、慣れた感じがありました。リサは、お勉強はあまり教えてなさそうな感じなのですが、火や水の扱いなどについては、宗介にしっかり教えているんだなと分かります。そのあたりは、宮さんの世界観、子育てに対する考え方が色濃く出ている気がします。
(ポニョと同時進行で、保育園を創ってしまった彼の子育て思想については、「虫眼とアニ眼」が参考になります)

虫眼とアニ眼 (新潮文庫)

虫眼とアニ眼 (新潮文庫)

ちなみに私がリサを好きなのは、「子育てにおいて、自分で決めたライン以下はテキトーにやる」というところが、見てて気持がいいからです。リサはデイケアセンターで働いてもいるので、親業もある程度は手を抜かないとやっていけないんでしょう。私のTwitterのタイムラインには、リサが好きというママがけっこういました。テキトーなところもあるけれど、宗介を抱きしめるシーンは、映画の中で数回出てきます。ポニョと宗介を家に招き入れるシーンとか「やるべき時はちゃんと親をやる」というところが、とても好ましいです。

これは好みの話ですが、私は勝ち気でサバサバした人が好きなんです。「リサだったらこんなことで悩まないだろうなー」とか、そういう風に想像しちゃうくらいには、彼女のようでありたいと思う昨今です。除草剤に関しては怒りすぎですが。
山口智子さんの声が上手すぎて、(設定上の)25歳って感じが全くしないのですが、逆に子育ての先輩っぽく見えちゃいますね。



■ ポニョと児童文学

ポニョについては公開当時、賛否両論あったような気がします。「ラピュタ」のような活劇や「もののけ姫」のような強いメッセージ性を帯びた宮崎アニメに慣れた大人にとっては、ポニョのストーリーは「え、これだけ?」という風に感じられたのではないかと思います。
私がポニョを好きになったのは、子供に絵本を読んであげる習慣ができた後でした。絵本を色々読んでいると、子供にとってどんなお話が魅力的なのか、いつも考えさせられます。わけがわかりすぎても良くないし、わからなすぎても良くない。子供は大人よりも、ずっとずっと想像力がたくましいですから、生半可なファンタジーや予定調和の物語じゃ、相手ができないのだと思います。ポニョを絵本と同じように、ある種の児童文学として観ていたら、すごく良くできた作品だなと思うようになりました。
そもそも、ポニョが創られたのは、宮さんが「祖父」の年齢になったことで、孫世代にあたる幼児が彼の視界に入ってきたからでしょう。ラピュタもののけ姫とは、対象にしている「子供」の年齢がぜんぜん違うのですよね。

公開当時、リサは「嵐の夜に子供をひとり置いていくとは何事だ」といった批判も受けていたんだそうです。けれどそれは、「おしいれのぼうけん」で「子供をおしいれに入れるとは何事だ」と批判するのと同じくらい意味がないと思います。子供を押し入れに入れる大人がいなかったら、あの絵本の冒険は始まりません。絵本の世界には、親をひとりでお迎えに行ったり、おつかいに行ったり、おばあちゃん家まで歩いたり、子供たちが小さくて大きな冒険をする作品がたくさんあります。せめて物語の中くらい、のびのび自由に冒険させてあげたいと思います。


「僕は大人の小説には向いていない人間だと決めたんです。児童書の方がずっと気質に合うんです。何が違うかといったら、児童書は、やりなおしがきくという話ですよ。まあ、やり直しがきかない話をロバート・ウェストールは結構書いていますけど。でも、やっぱり基本的に彼は、この世は生きるにあたいする何かがあるというふうに書いていますよね。」

岩波少年文庫の50冊 宮崎駿インタビューより)

最後になりますが、宮さんは、ポニョのドキュメンタリーの中で、「これ(ポニョがやってくる時に、巻き起こる嵐)を、『大災害』にはしたくない」と、繰り返し言っていました。最初は、「人類にお灸を据えたい」くらいの気持で創り始めた映画だった、と言っていましたが、制作過程でどんどん違った感じになっていきます。あの映画では人が一切死なないし、海に沈んでしまった町も元通りになります。荒れた海から、街の人を守ろうとする(リサの車を止めようとする)男の人たちまで、ちゃんと救っているんですよ…!ポニョのテーマは、「海が怒っている」とか、そういう単純なことでは全然ないんだよなあと、私は思っています。


ポニョはこうして生まれた。 ~宮崎駿の思考過程~ [DVD]

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★参考、おまけ

「少女のような母親」については、こちらの記事もぜひどうぞ!彼女にはいろいろとヒントをもらってこの記事を書きました。
日曜日はマルシェでボンボン - ものがたりとごはん

過去に私は、はじめてポニョを観た直後にも記事を書いていたようです
ポニョで崖っぷち少子化対策 - kobeniの日記

上記の記事でも引用させて頂いている、堀越英美さんの記事。「働くママさん、ポニョに癒される」
Webマガジン幻冬舎

ロバート・ウェストールについてはこちらを参考に
2012-04-04 - 水曜日のワタシとアナタ

こどもは手段が目的

先日、うちの夫がTwitterでこんなことを言っていた。

そうか。こどもはなんでも楽しむっていうけれど、ぼくらおとなにとっての「手段(目的地へ行くために走る)(紙を切るためにはさみを使う、とか)」を娯楽に変えているのか…。ぼくはつい「目的」のための「手段」として行動の主従関係を考えてしまうけれども、それは彼らには通じない考え方だよなあ。

おっ、夫のくせにたまには面白いこと言うなと思ったわけですが、確かに最近、うちの息子は「はさみで切るという手段」にハマっています。色とりどりの折り紙を切り刻み、ソファーの上には折り紙の断片が山のように…

基本的に大人がやる行為には「目的」があって、そのために手段がある。はさみを使うのは、切って何かをつくるのが「目的」だし、お風呂でお湯を汲むのは、体を流すのが「目的」。けれど子供がやることの多くは、大人にとっての手段自体が目的だったりする。ただ、はさみで紙を切る。楽しいから。お風呂で、延々とお湯を汲んでは流し、流しては汲む。楽しいから。目的はないので、どこにも行き着かず、終わりもない。大人はそれらを「遊び」と読んでいるらしい。

子供にとっては、この世のあらゆる体験が初めてのことに近く、新鮮に感じられるはずだ。だから、はさみを動かしたら紙が切れた!積み木を縦に積み上げられた!自転車に自分ひとりで乗れた!そういう一つひとつの「手段」を習得した時、その喜びのあまり、手段自体を繰り返し楽しんでしまうのだと思う。

彼らがひたすらに泥を掘っていたり、マジックで○を何十個も書いていたり、テープを何かにぐるぐるぐるぐる巻いたりするのを見ると、(本当はそれって、ものすごく興奮する行為なのかも…!)という気さえしてくる。ふだん私は、なんとなく「キリトリ線に沿って」と命令の通りに紙を切り満足しているけれど、実は紙を切るってものすごくハァハァする行為なんじゃないか?そういう原体験を、自分も幼少期にしたはずだが忘れているだけじゃないのか?なんて思う。そういえば私は小さい頃、絵本にカバーをつける行為にハァハァしていたことがあり(本屋さんがつけるプロフェッショナルなカバー構造に強烈な憧れを抱いていた)手のひらサイズのピーターラビット全集に、ひたすら折り紙で作ったオリジナルカバーをつけ、表紙にタイトルを書き添えていた。汚れを防ぎたかったわけではない。カバーをつけること自体が楽しかった。そういう体験って、意外と皆さんにもあるんじゃないだろうか。


大人は、子供たちのやることを「遊び」と呼び、「仕事」と区別している。仕事とは一般的に、利益創出を「目的」としたビジネス全般をさすわけで、仕事におけるすべての「手段」は「お金を儲けること」という目的から基本的には逃れられない。(企業理念が目的で、利益は手段です。と、偉い人には言われてしまいそうだが、それにしては利益の存在感デカすぎじゃないのかと思いますねえ、ええ。)大人の世界で目的を忘れ手段に没頭しようものなら、即座に嘲笑の対象になる。「手段が目的化しちゃってんじゃないの?」とか、「仕事のための仕事じゃん」なんて言われたりする。それは簡単に言えば「お金を稼ぐという目的に対して、効率が悪い、無駄が多い」という意味である…ことが多い気がするんだけど、どうだろう。

けれど、大人のほとんどが、はさみで切ること自体の喜びを忘れてしまっている中で、今でも「はさみで紙切るのマジ楽しい。鼻血出そう」という人がいたら、それはけっこうすごい。たとえば画家とか詩人とか、そういう類いの人は、常に生まれたてのフレッシュな気分で世界を見る必要があるから、はさみで切ることひとつも楽しめるかもしれない。
…という風に考えると、手段が目的化したexcelファイルとか、手段が目的化したシステムとかにもあまり腹が立たないかもしれない。それは「何人日かはともかく開発すんのマジ楽しい」という気持で作られたのかもしれず、「そんなに楽しかったなら…」と、なんとなく納得できる。会議が長引くとなぜかイキイキしだす人も、会議のあの昂揚した雰囲気が好き!会議室という密閉空間にいつまでも閉じ込められたい!という人かもしれず、それはそれで現代アートっぽいので「新しいかも」という気持になれるのではないか。なれないか。


冗談はさておき(冗談だったのか)、目的性の薄いシンプルな行為への原始的な喜び、というのはバカにできない気はするし、大人になっても楽しめるのはなかなか貴重なことだ。鉄道を見るのが好きとか夜中のドライブが好きとか、マスキングテープ貼るのが好きとか山道の散歩が好きとか、意外とみんなやっている気もしますね。「いくつになっても、寝るのが好き」という人なんかも、良いですよねえ。
ちょっと話は逸れるけど、昔ネイリストさんに「仕事の中で一番楽しいのはなんですか?」と質問したことがある。やっぱりカラー(爪に色を塗る)とか、アート(絵を描く)なんじゃないかな、と想像していたんだけど、答えは「甘皮を取るところですね」だった。そこか…
私の「文章を書いては直し、直しては書くのが好き」というのもそれに近いかもしれない。いちおう目的というか、終着点があるような気もするのだけど、整えていく作業が好きというのは、甘皮取りと同じくらいシンプルというか地味?だ。
しかし残念ながら、「目的性が薄い行為」は、お金にはつながりくいように思う。(そう考えるとお金って、目的のあるところに発生するんですね)単純作業、なんて呼ばれちゃったりしてね。もしこの世に、お金という概念がなかったら、私は「家にある本にひたすらカバーをつける」日々を送っているかもしれないなあ。あるいは文章を一日中推敲している。たのしー!推敲たのしー!あっ、陽が暮れた!とか言いつつ。




…それにしても、貴重な童心を持った「手段好き」の大人たちが、大人であるが故に「手段が目的化しちゃってるよ(藁」などどバカにされるのは、あまりに可哀想だと思いませんか。
なのでここらでひとつ、大人たちが心ゆくまで手段を楽しむ夢の国を作ってはどうか。手段が目的ランド。略してSML。
そこでは、目的がなく生産性が微妙な行為ほど歓迎される。すべてのスポーツは、打ちっぱなし投げっぱなしの蹴りっぱなし。ルールはないし勝負もない。ずっとリフティングするもよし、イナバウアーばっかりやるもよし。
ランドの周囲はぐるっと散歩できるようになっており、特にスタートもゴールもない。歩いたり走ったり、それ自体を楽しめるよう、美しい木々や花々が植えられている。
PCなどノマドっぽいことができるスペースはあるけれど、「〆切」は持ち込み禁止。excelやPPTをいじるのが好きな人は、ひたすらいじってもよい。ただし納品はできない。
料理を作れるコーナーもあって、ずっと唐揚げに粉をつけていたい人と、唐揚げを揚げていたい人と、唐揚げを食べていたい人が絶妙な連携プレーを見せていたりする。
何をしたらいいか分からない大人のために、ランド内には「手段メンター」としてたくさんの猫がいる。彼らを見習って一日を過ごす。

周囲には、「手段が目的リゾート(SMR)」があって宿泊もできる。エレベーターを何度昇降するのも自由。別に自分の部屋に帰らず他の階で降りてもよい。「はっ、ランドに行くはずだったのに昼寝しちゃった!」みたいな人は、むしろ従業員から「おめでとう」と拍手されたりする。
もちろん、SMLにもSMRにも時計がない。効率を重視した日常を忘れられる、魔法の国だから。あれ?どっかで聞いたような話だな。



そもそも、人生の目的って何なんでしょうね。
人生って手段なのかなあ。
とか書いて、めいっぱいお茶を濁しつつ、終わり。うちの猫にも聞いてみます。







※全体的に、小沢健二のドゥワッチャライク風の文章になりました。パクったんじゃないよ!影響を受けたんだってば!

HUGレポート書いたよ「オープンインターネットの今&これから」

お手伝いをしていたHUG(はてなユーザー主催のイベント)が無事に終わりました。終わったけどなんだか日々忙しいので、けれど「ブログ書くまでがHUGですよ」とのことらしいので、ぜんぜん推敲できていませんが、もういい!テーマもテーマですので、公開します。雑文しかも長文申し訳ない。

イベントの基本情報はこちら近藤社長、ユーザーイベントで「はてなで世界を目指す」宣言 -INTERNET Watchです。簡単に言うと、はてなやインターネット初心者〜コアなはてなユーザーまで集まって色々勉強&話し合ったよ。という内容です。
イベントのテーマは「オープンインターネット」。つまりブログやtwitterなどを使って、主に見知らぬ人に向かって発信することのあり方、可能性について、です。
これがテーマになった理由は、基本的にはいま、はてな代表の近藤さんが興味を持っており、イベント主催のいちのせきさんがそれに共感したから。ということに尽きます。


■ HUGの第二部(ユーザーによるワールドカフェ)で語られたこと

上記の記事は第一部が中心だったし(ワールドカフェ部分を記事で伝えるのは難しいと思う)、Ustも第一部のみだったので、参加者の一人として私も楽しみにしていた、ワールドカフェ部分で何が語られたか?ついて書いておきます。

ワールドカフェのテーマは、繰り返しになりますが「私のオープンインターネット体験/これからのオープンインターネットについて考える」です。
「オープンインターネット=ネット上で不特定多数の人に向かって発信すること」について語り合うと、どうしても「どういう顔で」「何を」語るのか?というあたりに興味が集約されていくのかな、と思いました。
ワールドカフェでは10近くのテーブルがありました。どんな話が交わされたかは、他の方のブログ記事なども見られますので、私は自分がついたテーブルで交わされた会話を思い出してみます。

私が話した方は、たまたま?でしょうか、「オンラインでは実名で統一してます」という方が多かったです。たとえばA大学のtwitterサークル(いくつかのサークルをまたぐクラスタみたいなもの)というのがあった場合、プロフィールでA大学を明らかにしておくだけでサークルに誘われ、新しい出会いが、というような話を聞きました。
オフ会で、オフィシャルな名刺の交換とか見ていると、たとえば「へー、●●にお勤めなんですね。××さんってご存知ですか?」みたいな会話ってありますよね。まあ、ぶっちゃけあれって8割くらい「知らない」で終わるんですけどwプロフィールで共通点を探す、というのは非常に簡単に距離を近づけやすいので、良いんでしょうね。自分のプロフィールを財産だと考えるならば、なるべく明かした方が、接点や親しみの量が増えるのかもしれません。

テーブルで一緒になった方(弁護士をされてる)が、「最近、年賀状で、仕事用とプライベート用を一緒にした」とおっしゃってました。やっぱり子供の話なんかもする上司の方が、親しみやすくて人間味があって信頼できるよねー的な?facebook採用といった話もあるし、全人格的に人を評価する、みたいな話は今っぽい、というかアメリカっぽいですよね。オンの自分とオフの自分、そこまでクッキリ分ける必要ってあるのかなあ?同じ自分だし…。会社にプライベートを持ち込むな!みたいな話も、ちょっと時代錯誤っぽく映るようになるのかも。SNSが発達してくると、そういうことはある気がします。

とはいえ最近、この辺のオンラインにおけるマナーというかポリシーが、あまりに人によってバラバラすぎて、各所で摩擦が起きている気がして、ちょっと面倒くさいですよね。フリーランスなのでオンラインでは、すべて実名で統一し名前を売っていきたい人、基本は通名で所属は出したくないが顔は出している人、本名も所属も職業もできるだけばらしたくない、けどオフ会には出たい人、など色々ありますね。いろんな人がインターネットにやってきている上に、webサービスが乱立していて、それぞれが勝手なポリシーの元に運営している以上、ユーザーのポリシーの衝突は避けられないといった感じでしょうか。

今はfacebookを中心に使っているという、先の弁護士さんが、「例えば自分の知人のしていることを批判したくても、日本社会ではしづらい。でも、した方が世の中のためになる気がすることがある。そういう時のための顔が欲しい」とおっしゃっていたのが、なんだか印象に残りました。私も、例えば近所のママ友に自分の信念を強要したりはしませんが、一方で信念を共にする誰かと集まったり意見を交わしたりはしたい…と思うこともあります。
また、「人間ならいろんな気分があり、いつでも正しいことポジティブなことを言えるわけではなく、時には疲れたーとか、ネガティブなことも言いたい時もある」というご意見も。twitterで愚痴るのってどうよ?という話はよく浮上しますが、家庭でも仕事場でも言えないけど誰かに共感してほしい(だからtwitterだけで愚痴る)のかな、って思いながら見てたりします、私は。そうだとすると、その人は愚痴っぽい人ではなく、むしろ我慢強い人に見えてきますね。

リアルでも、会社の同僚に、上司に、保育園の先生に、高校時代からの親友に、両親に…と、見せている顔や話す話題、話し方のトーンってちょっとずつ違うわけです。それを私たちはほぼ無意識にチューニングしている。オンラインでも、ひとつのサービス上で簡単に(ここ重要)顔を使い分け、チューニングができたらいいのに、っていう話ですね。また、「完全匿名」という世界もまだまだ、用途によってはニーズがあるように感じました。たとえば先日も思ったのですが、妊婦や乳児育児について、「男性が」恥ずかしがらず安心して語り合う・質問できる場で、どんな人でもパッと想起できるメジャーな場所がまだ少ないですよねとか。小町だとすぐフルボッコだしね。


最終的に私のテーブルでは、「はてなが、これらの煩わしさをなんとかしたwebサービスを作ればいいのに」という意見でまとまりましたw



■ 私にとってのオープンインターネットの価値

HUGでは口頭でお話したんですが、参加した皆さんのブログを読んで刺激されたところもあり、私個人が感じているオープンインターネットの価値についても、あらためてここで、さらっとまとめてみたいと思います。



● webの文章、という新しいジャンルの書き手になれる

文章を書くのが好きな人間には、ブログってシンプルで素晴らしい仕組みだと思ってます。mixiで日記書いていた頃と、同じ人間が同じようなこと書いているのに、ブログだと読んでくれる人がいて、反応を返してもらえます(私はどんだけmixiがトラウマになっているのかと)。

プロの小説家やエッセイストやライターから見たら、webの文章なんかウンコみたいなものなんでしょうか。そうなのかもしれません。けれどインターネットの世界に独特の、「web文体」とでも言えるような新しいジャンルが生まれている気がします。web独特のスラングもたくさんあるしね。ウンコはウンコなりに文体を追求していったら楽しいかな、と思ったりしています。インターネットがなかったら、そう簡単に書き手の側にはまわらせてもらえないと思う。

● 組織や所属を超えて、考え方でつながれる(少数派が少数派でなくなる)

これもかなり大切にしている部分でありますが、私はワーキングマザーであり、会社ではかなりの少数派です。ワーキングマザーは、それぞれの会社ではまだ少数派であることが多く、悩みを一人で抱えた結果→無言で退職、という人も少なくないと思っています。しかし「(日本)全体」で見てみると、けっこうな数のワーキングマザーが存在しています。そういう存在をうまく可視化してつなげてくれる力が、twitterやブログなどにはある。横串で俯瞰して見えるからこそ、自分の悩みの問題点が自分にあるのか会社にあるのかなども、客観的に考えることができます。会社外の誰かと、一緒に考えることができます。「ワーキングマザー」という「属性」というよりは、ある種の「価値観」でつながっていけるのが良いところだと思う。だからイクメンクラスタとWMクラスタが自然に融合したり…ということがあるわけです。
「自分の勤める企業という共同体だけが世界」という状態は、ワーキングマザーのような存在にとってあまり健全ではありません。つまり「企業」のような既存の(なかなか揺るぎ難い)枠組みを超えたつながりをもたらす、という点で、オープンインターネットは非常に存在価値があると思います。(facebookは、この「既存の枠組み」をものすごくベースにしちゃってるんですが、それでも横串で人をつなげられるというのならやってみたまえキミ!期待しているぞ!mixiは最近使ってないので現状がわからないのですが、すいません)

その際にブログは、HUGでも近藤さんがおっしゃっていましたが、プレゼンツールとして大いに機能すると思います。
つまり「私はこう思います」という意見を、人と出会う前に説明しておけるということです。「私は文章がヘタなのでブログが続かない」という人って多いと思いますが、自分の「意見や考え」を書くことに文章力はさして必要ないと、私は思います。大事なのは意見であり考えで、表現方法ではない。ブログである程度、自分がどんな考えの持ち主であるか書いておくと、新しく人と会う時にスムーズです。お互いにブログを読みあっている状態で会えば、ずいぶん旧知の仲のような気になれるはず。しかも、ジョブズみたいな凝ったプレゼンしなくていいんですよ、ブログって。相手の目を見なくたっていいんですから。素晴らしいですよね。インターネットはシャイで内向的な人の味方です。

ワーキングマザーだけでなく、そもそも「母親」という存在は、個としての発言や発信を、社会的にそこまで許容されてこなかった?ところがあると思います。そういう存在や、そういうトピックは世の中に無数にあるはずです。いわゆる少数派や弱者にも発言の機会を与え、その人たち同士を横串でつなぐことで、孤独から救ったり、「いやそもそも少数派ですらないんだ」と、当人たちや世間に認識させることもできる。オープンインターネットって、少数派(あるいは、かつて少数派とされてきた人たち)の強い味方だよね。と思います。



● 「企業人」でも「家庭人」でもない活動のプラットフォームに

ちゅうことで、「既存の組織を超えてつながれる」の延長線上になりますが、まあこれは一番わかりやすいのは「政治」の話ですかね…。ここ難しいしたぶん皆さん想像つく話なので、あまり突っ込んだこと書きませんが、たとえば「子供子育て新システムってこのままでいいの?」とか思っている人は、リアル組織で誰と議論して、どこにアクションすればいいのか?というと、どこなんだろう。みたいなことです。これまでで言えば市民活動?になるのかもしれませんが、インターネットはそういう活動に参加したい人のプラットフォームになっていくでしょうね。発起人になったり、参加することのハードルも下がりそうです。





そんなわけですが最後に。今のインターネットでは、書き手より読み手の方が多いという現状があるらしい…ですが、そもそもで言えば、自分の意見を多数の他人に向かってハッキリ言える人、自体の数が少ないんだと思うんです。そう思いません?クラスを見てても、そういう人って少なくなかったですか?
けれどその「とりあえず人前で言う」のハードルを超えられた人には、それなりに得るものがあるのだ、と私は思っています。オープンインターネットならね。




長くなってしまい、すいません。きょうはこんなとこで。参加くださった皆さんありがとうございました。

■会の様子&参加者の皆さんの感想ブログリンク集こちら〜
HUG Tokyo 2012.3.31 終えて。 - はてなと何かやりたい日記。
■会の趣旨(コンセプト)はここが詳しいです〜
#HUG_Tokyo を終えて。思っていたことが実現できてよかった! - @kaoritter BLOG

インターネットとの出会い、はてなとの出会い

インタビューズで、「インターネットとの出会いを教えてください」という質問を頂きました。くれたのはBOTかもしれませんが、人間でないにしてはとってもタイミングが良いので、こっちで回答したいと思います。


突然ですが皆さんは、ロッキング・オンの「H」という雑誌をご存知でしょうか。
私、当時の雑誌などは、東京に来て数々の引っ越しを重ねるうちに、ほぼ全て捨ててしまったのですが、なぜか当時の「H」を数冊だけ、持ってます。




mixiとかtwitterとか様々なwebサービスを、10代の頃から日常的に使える子たちについて、ずっと気になっていたというか、もっとも羨ましいなーと感じてきたのが、「趣味の合う友達を探しやすいのではないか」ということでした。
当時「H」の後ろの方には、「友達求む!」「女性求む!」「男性求む!」みたいなコーナーがあって、私は、投稿こそしたことはなかったけれど、切実感漂うそれらをよく読んでおりました。

『文通しましょう。私は21歳の女の子です。ヒスの服とかが好きで、S×G×Gのファンです。でも音楽はなんでも好きだしいろいろ聴きます。私の住む町は有名だけど田舎でスゴクつまらなくて、友達も少ないので仲良くしてくださる方手紙ください。女の子でも男の子でもOKです。たまには会って遊べるくらいの人がいいので近県、県内の方が良いです。最近のあなたの写真を同封していただけるとうれしいです。長野県 ●●●』(当時のHから抜粋)


H創刊当時、私は田舎の地方都市に住む田舎の(二回言いました)高校生でした。高校に入ってからハマった、渋谷系とかなんかの好きなアーティストのライブやコンサートに、一緒に行ける友達がすごく欲しくて、けれど周囲では小室ファミリーが大流行しており、同学年でひとり、趣味の近い友達を見つけて、その時とても嬉しかったのを覚えてます。彼女とは「もっと同じ趣味の友達を作りたいね」といつも言っていて、あわよくばバンドとかやってみたい(若い!)とか思っていて、ライブやコンサートに行った後に、(趣味が同じであろう)知らない人に話しかけてみようかどうしようか……と本気で思案したりしていました。結局私たちには、そんな勇気はなく、メンバーがいないため「けいおん!」みたいなことも一切できなかったわけですが…まあ、その前に楽器を何ひとつ弾けないからムリだったんですけどね!
「H」の「友達求む!」ページが今も忘れられないのは、そんな苦い思い出があるせいかもしれません。このページってなんだかそういう、誰かを探そう!という気迫がある気がする。正直、今見ると、投稿してる人全員中二病認定(もちろん私含む)という感じですが。田舎という環境にいると、自意識をこじらせやすいですから…。


遠く離れた都市にいても、趣味が合う、好きなものが近い、あるいは考え方が近い、はたまた同じ痛みを抱えている…という人同士、性別や肩書きなどの属性・所属を超えて、チャットだろうがツイートだろうが自由に話せるのはすごく良いことだ。物理的な壁を超えて、インターネットやSNSによる出会いのきっかけを、10代の頃から味わえるってどんな感じなんだろう。ホントにいいなあ、君たちは恵まれてるよって思います。
「学校」や「クラス」というのは、かなりの閉鎖空間だと思いますし、田舎になればなるほど、村や町自体がそうだという感覚は強くなるはず。実際に会えなくても、自分と近い感覚を持った人が「この世にいる」というだけで、救われる感じがありませんか。それが思春期なら、尚更そうじゃないかな。


というわけで、そんなほろ苦い思い出のあるアラサーの私にとって、
インターネットは「けっこう魔法」なのです。


本題に戻って…


私の「インターネットとの出会い」ですが、いちばん最初の出会いを正確に言えば、「H」を読んでいた高校生の頃です。家にはパソコンが無かったので、前述した唯一の親友と、ちょっと都会の方にある本屋さんに、インターネットなるものをしに行きました。初めてアクセスしたサイトはなぜか「メンズノンノ」のHP… そこにはさして新鮮な情報がなく、「これなら雑誌でいいじゃん」と思って終了でした。そこからしばらくは、ほぼインターネットと無縁な生活を送ります。

こっちこそ本当の「インターネットとの出会い」だろう、と思えるのは、やっぱり2008年にはてなでidを取って、ブクマ&2009年からブログを始めた時のことでしょう。(kobeni_08の「08」は、ブクマを使い始めたのが2008年だったので、適当につけた数字でした)昔から、外に向かって何かを発信することには興味がありました。それって、最初のハードルが非常に高いと思うのですが、私は大学生の時に、インターネットではないものの、根暗な文化活動をいくつかした経験があり、その時に最も高いハードルを超えていたので、ブログで何か表現するのに特に抵抗はありませんでした。
はてなは、idという、アルファベット数文字の羅列と、それに紐づいた私の発言だけで、たくさんの素敵な人・面白い人を、その人たちの考えを、私に引き合わせてくれました。いろんな観点からものを見るようになったし、興味も広がりました。昔からハンドルネームで活動した経験がある人には、当たり前のことかもしれませんが、私にとっては非常に驚きの多い体験でした。(そのことは、育児休暇から復職する時の、この記事明日から復職します。 - kobeniの日記に書いてあります)今はtwitterアカウントで、きっと同じような体験をしている人が多いんじゃないかと思います。

インターネットでの自分のメインフィールドは、どこでも良いと思うのですが私の場合はここ(ブログ)と、それに付随してtwitterです。
昔から、習い事も趣味も、ちっとも続かない私ですが、ブログはもうすぐ3年になります。ただブログを書いて、twitterでつぶやいているだけで、本当にたくさんの面白い人、賢い人、すごい人、変な人に知り合えて、20代をほぼ会社とその周辺で過ごしてしまった自分には、とても新鮮なのです。
私がこれからもtwitterやブログを続けていきたい理由はいくつかありますが、それについては自分がこの3年間で、オンラインでいろんなFBをもらいながら考えてきたこととして、3月31日のHUG(Hatena Users Group Tokyo)でお話できたらなと思います。※参加者同士話せる、ワールドカフェ(フリートーク)のコーナーがあるので もしかして誰かにとって、webで発信していくことの一つのヒントになれば嬉しいなと思います。ちょっとステマっぽくなってしまいました。



というわけで、私のインターネットとの出会いは、間違いなく、ここ数年のはてなで過ごした日々&人との出会いなので、はてなにはとっても感謝しています。
魔法がない時代と、魔法が(空気のように)ある時代、どちらも知っているのは、幸せなことかもしれない、とも思います。
よかったらHUG、皆さんも遊びに来てください。スター、いっぱい差し上げます。



HUG Tokyo 2012 開催案内 - Hatena::Group::#HUG_Tokyo
【増員70名】#HUG_Tokyo 2012.3.31 : ATND


<関連記事>
はてなと何かやりたい日記。
東京エスカレーター取材日記: ページが見つかりません。
id:jkondoとid:onishiにお会いした件 - kobeniの日記(はてなブログ版)

カット済み野菜をレシピ通りに!私の「ヨシケイ」生存戦略

皆さんこんにちはkobeniです。年度末ですね!生きてますか!私はかろうじて生きています…ひとりデスマーチ状態で、ぜんぜんブログ更新できなかった!ホントに、働くママとしての生存戦略を考え直したいここ一カ月でした…


さてこの東京待機児童砂漠でのサバイブに必須スキルであろう料理!!料理がとっても苦手な私です。が、紆余曲折あって、昨年末から宅配サービスの「ヨシケイ」を使い始めましたヨ☆ワーキングマザーに人気の宅配といえば、やはりパルシステムやOisixでしょうか。そんな中ヨシケイを使ってみようと思ったのは、「レシピが決まっている食材を、毎日運んでくれる」のと、「野菜をカットした状態で運んでくれる(サービスがある)」の二点からでした。料理が苦手な私にとっては、レシピを考えるのは苦行でして、さらにそれを「一週間やりくりする」などに至っては、「そんな持続性のあるクリエイティビティねえよ!!」と逆ギレしたくなってしまう次第で…。また、子供がまだ小さいですので、食事の準備中も「腹減った」「菓子をくれ」「退屈だ」などのシュプレヒコールがすごいため、「事前に野菜を切っておいてくれたら、短時間でパパッと作れるかな?」という期待もあり、頼んでみました。ちなみに我が家の家族構成は、福満しげゆきとガンダムが好きな伏し目がちの夫1名(残業で帰宅は遅め)、キュアハッピー好きの3歳男児1名、私の3名となっております。

年末にお試しで十日間使ってみて、毎日その日の感想を書き留めていたので、まずはそれをご紹介しますね。その後に、メリット・デメリット比較など書きたいと思います。ということで、「プロジェクトY」ヨシケイ体験記スタート〜〜 



●ヨシケイ一日目。
きょうのレシピは牛丼と、野菜炒めものを卵で挟んだやつだった。野菜がホントに細かく切られているためラクチンだ。しめじも、スーパーでは見たことのない小さめの「ふさ」で入っている。食材の包装が、レシピごとの分類にはなっていないので、途中でタマネギを、牛丼の方で調理し忘れそうになった。が、作ってみたら全体の調理時間は30分。初回でこれなら、まずまずでは。途中「はっ、このニラを使ってない…!」と気付いたが、めんどくさかったのでスルーした。

食材は毎日こんな感じでやってきます

(二日目は書けなかったらしく、日記がなかったのでいきなりお休み)


●ヨシケイ三日目。

せん切りされたキャベツがわっさり入っていたのだが、これらの切った野菜も「電解水で洗ってあるので、特に洗わずに食べてください」と書いてある。けれど、なんとなく洗わないと落ち着かない(味もなんだか…)ので、一応洗う。途中、我が家の片栗粉が残り少なくて一瞬焦った。各種調味料まではついてこないので、油断せずそろえておかなくてはなるまい。オクラが例によって小さいの一個だけ入っていて、パラパラと入れてみたが存在感が薄すぎた。きょうも30分でできた。


●ヨシケイ四日目。
きょうはワンタン入り鍋だった。鍋って。うちは夫の帰宅時間がまちまちのため、鍋にされると残しておきようがなく、若干途方にくれた。鍋の日は注文をやめておこうと思った。白菜ともやしの量が、用意されているスープの量に対して多すぎて、お皿からはみ出て大変だった。味は美味しかったけど。それにしても平日に鍋とは新鮮である。調理は、えびを剥いて豆腐を切ったくらいなので、20分くらいかな。初日にスルーしたニラをここで華麗に突っ込んでみました。


●ヨシケイ五日目。
きょうはからあげと、野菜の角切りがたくさん入ったスープ。野菜(かぼちゃ)などをここまで細かく切るのは、自力ではかなり難しい気がする。細かいのでサッと煮えて、かぼちゃが甘くて美味しかった。こういうのはヨシケイの真骨頂(?)と言えるのではないかしら。からあげも含めて20分くらいでできてしまった。コンソメが家にあって良かった…。


小さい野菜は煮えやすい

●ヨシケイ六日目。
きょうはビーフシチューとサラダ。30分で美味しいビーフシチューなんか作れるのか?と疑心暗鬼だったが、けっこう美味しくできた。お肉(牛肉)をくるくると巻いて、片栗粉をつけて焼いて、それをシチューに入れる。そうすると、煮込む時間は20分くらいで、お肉がやわらかくて美味しいビーフシチューができるんだそうで…。実際、美味しかったです。夫と息子にも好評でした。



ルーが粉だから素早く溶ける

●ヨシケイ七日目。
きょうは、たれに漬込む焼き魚と、野菜炒め。ヨシケイのちょっと面倒くさいところとして、ドレッシングや調味料の細かさというのがある。二品どちらに対しても、砂糖+お酒+醤油+みりん+塩、だとか、片栗粉+コンソメ+うんぬん…とやっていくのが面倒くさい…というか、時間がかかる時がある(そのくらいやれよ!という声が聞こえてきそうですが、料理嫌いの人ってこんなもんだと思うの☆てへぺろ)。ドレッシングとか、合わせ調味料とかを、自前で用意しておくとよいのかもしれない。そんなこんなで、今日は40分くらいかかってしまった。

●ヨシケイ八日目。
きょうは、野菜たっぷり豚汁&コロッケ。豚汁は、野菜を煮込むだけなので、その野菜が既に切られていると、鍋につっこむ&お味噌を溶くだけでいいため、ムチャクチャ楽だった。豆腐と油揚げがついてきたので、手抜き感も薄れた。コロッケが二つしか入っておらず、大人二人だと一つずつか…これではダンナは物足りなかっただろう…

●ヨシケイ九日目。
きょうは、「なんちゃって軟骨つくね、温泉たまご乗せ」。ヨシケイ的にはこれはイチオシらしく、「人気!」みたいなマークがついている。どうもヨシケイには「なんちゃってシリーズ」というのがあるようで、まあキュウリにはちみつかけるとメロン味、のもうちょっと良心あるバージョン、みたいなものかと想像した。作り方はというと、鳥のひき肉+くるみ+たまねぎのみじん切り+卵+片栗粉を混ぜる→ハンバーグみたいに焼く→あらフシギ!鳥の軟骨つくねみたいな食感に!…簡単だったし、確かに食感が軟骨っぽい。温泉たまごもかけるんだよ〜。自分だったらこんな凝った料理を思いつかないので、つくってる時も楽しかった。そして、あいかわらず副菜(かぼちゃの煮付け)の量がギリギリ… 


ナンチャッテー

●ヨシケイ十日目。いったんお試し期間は今日で最後だ!
今夜は餃子と回鍋肉でした。…特に書くこともないくらい簡単だった!当たり前か。餃子は焼くだけだし、回鍋肉も肉投入→野菜投入→たれ投入 するだけだもんね。回鍋肉って、野菜を切るところが大変だったんだ…と気がつきました。20分くらいでできた気がする。



どうでしょう。ヨシケイの雰囲気伝わりましたか?
ここで私なりにメリットとデメリットをまとめてみると…


■メリット

・ レシピを考えなくていい(つまり、注文もラク)
・ 野菜を切る手間が省ける(「プチクイック」を頼めば)
・ 食材を毎日使い切れるため、ムダがなくゴミが出ない
・ 手作りの美味しさはある程度、保てる
・ ヨシケイが提案してくる(ちょっと珍しい)レシピを習得できる


■デメリット

・ 毎日やってくるので、基本は毎日自炊が必須に
・ レシピ・分量固定なので当日アレンジが効かない
・ 産地にそこまでこだわれない(産地表示はあります)


といった感じでしょうか。食材アレンジが自分でできる・たまには気分で料理に手をかけたいような人には、あまり魅力がないサービスかもしれません。


ちなみに、もっと基本的な情報をいくつかお伝えすると…

●宅配方法
家の前に、発砲スチロールの箱に入って食材が毎日、置かれます。保冷剤つき。
注文者の帰宅前に、不審者や不審猫などが開けていないかチェックするため、紙のテープで巻かれています。


「なんだお前!毎日来やがって!スリスリしてやんよ!」

●注文方法
デカいカタログが食材と一緒にやってくるので、マークシートのような紙に手書きで記入して、箱の中に入れておきます。(他にも方法あると思う)
●コース
「プチママ」(子供も考慮したレシピ、離乳食へのアレンジレシピのついた基本コース。離乳食へのアレンジレシピは最近ついた気がする)
「プチクイック」(プチママの野菜をカットして届けてくれる、私が頼んでたのはこれ)
の他、デリ(湯せんするだけのレシピ)や、基本のおかずセットなど色々あります。
●金額
プチクイック2人用だと900円〜1100円程度なので、一週間で4000〜5000円です。平日5日分とかまとめて頼んだ方がおトクです。


私の場合は、お試し期間は大人2名で注文し、子供にはちょっと分けたり、別の食事を用意してました。結局、その後もずっとヨシケイ使っているのですが、2人と3人を混ぜてみたり、忙しい日はデリを混ぜたりなどして、やりくりしています。ご飯は毎日炊いておき、調味料は最低限のものを週末に揃えておけば、特に問題ないです。
デリは大人2人分で1300円〜400円するのですが、けっこう美味しいのと、「汁物」や「おかず」みたいなものもついてくるので、スーパーで買うよりいいかなと思っています。最大限の手抜き…


2カ月程度使ってみて、やっぱり良いなと思うところは、スーパーなどに寄ったり、今日のおかずは…と考える必要なく、揚げ物や魚など、バランスよくそこそこ美味しいものが食べられるところです。あと、意外と経済的なところ。

うーんと思うところは、「もう今日はヘトヘトなので、お惣菜で済ませたい」と思っても、注文してある日は雨が降ろうと風が吹こうと、例の箱が置かれてレシピが来てしまうということですね。あと、カタログがデカすぎて、部屋の中で存在感を放ちすぎてるところでしょうか。


あと、私はてっきりヨシケイって、働くママくらいしか使ってないのかなと思っていたのですが、電話したら「11時にお邪魔してもいいですか」みたいなことを営業の方に言われ、「日中は仕事でいないです…」というようなやりとりを何度かしました。働くママ需要少ないのかなあ。


まあでもだいたいのレシピが、最低2名から注文できるみたいなので、DINKSなご家庭などにもオススメです〜。カロリー低めの健康食レシピコースもあって、なにか病気療養中などで、カロリーを気にされている方にも良さそうです。我が家では夫が「きょうの夜ご飯なにかな〜」とカタログみてwktkしていたりなど、基本的には満足してるので、これからも使いたいと思いま〜す。あんまり食にうるさくない夫でよかった…さあ皆さんもヨシケイで、生存戦略しませんか!



■ヨシケイのHP
夕食食材宅配サービス:ヨシケイ

■#wlb_cafeで語られた「夕ご飯の工夫」、合わせてどうぞ
夕ご飯の工夫 by #wlb_cafe - Togetterまとめ

※今、ヨシケイのサイト見てたら、「その日(当日午前5時までなので、実質は前日?)に頼んだらその日に届く」というサービスが、地域限定で始まっていた。たとえば「今週だけクソ忙しいので頼みたい」とか「きょう体調が悪い…」とか、前日に注文すればいいなら、そういう変化にも対応できますね。

夕食食材宅配サービスの夕食ネット(ヨシケイ)お試しキャンペーン <日替りメニュー>


※追記
その後、ヨシケイ(調理それなりにありver)すら面倒くさくなってしまい、週の半分はパルシステムのお料理セットを使っています。