kobeniの日記

仕事・育児・目に見えない大切なものなどについて考えています。

観客席で世界のねじを巻く 〜舞台「ねじまき鳥クロニクル」〜

 

「いい考えがあるわ。せっかくそこに考えごとをしに入ったんだから、あなたがもっとその考えごとに集中できるようにしてあげましょうか」

「どんな風に?」と僕は質問してみた。

「こんな風に」と彼女は言った。そして半分だけ開けてあった井戸の蓋をピッタリと閉めた。そのようにして完全な、完璧な暗黒がやってきた。

 

ー「ねじまき鳥クロニクル」第2部 予言する鳥編

 

 

 

新型コロナウィルスの世界的なパンデミックについて、誰が事前に予想していただろうか。少なくとも私は一切、まったく、あのようなことが起きるとは想像していなかった。「中国で何かヤバい感染症が流行している」と聞いた時も、それがジワジワと日本にやってきて出勤停止命令が出た時も、「東日本大震災の時もしばらく会社に来るなと言われたけど、二週間ぐらいだったしな」などと高を括っていた。そうしたらひと月、半年、一年…と、いつまで経っても終わりが来ない。コロナ禍は、それなりに大きな影響力で私を変えてしまった。いちばん大きかったところで言うと、会社を辞めた。

リモート勤務が当たり前になり、「おつかれ〜」から始まる同僚との他愛のない話がなくなり、エレベーターの扉が閉まるまで見送るお辞儀がなくなり、オフィス街で立ち寄るDEAN&DELUCAでのコーヒータイムがなくなり…という日々の中で私は、自分が「仕事」だと思っていたことの大半が、ビジネス本来の部分ではなく、その周辺の「ごっこ」みたいな部分だった、ということに気付かされてしまった。私の仕事に関していうと「ビジネス本来の部分」は、リモート勤務でも問題なく進めることができたのだが、そこだけ残すと案外、味気なかった。一緒に働いていたのが、効率を重んじる優秀な人たちだったからだろうか、だんだんと誰もオンライン会議のカメラをオンにしなくなり、雑談のない声だけのコミュニケーションは些細な行き違いを度々生み、疑心暗鬼になるようなこともしょっちゅう、起きた。むしろ、そんな中でも問題なく仕事が進むことを、不思議に感じるようにさえなった。

 

「会うな」「近づくな」「話すな」「叫ぶな」「歌うな」

 

コロナが私たち人間に禁じた行為は限定的なものだったけれど、絶対に欠かすことができないものだったと今でも思う。東日本大震災の頃、各種のエンターテイメントは随分と長いこと「自粛すべきもの」という扱いだった。そして当時、私はそのことに納得していた。仮設住宅で暮らし、衣食住すら思うようにならない人たちがいる中では当然だろうと。

でも、コロナ禍で半年、一年、とライブや観劇ができない日々を送る中で、私は「エンターテイメントは不要不急」に、全く納得できなくなった。全てのイベントというイベントが中止になっていく、あのモヤがかかったような日々。自分はそんなに大してライブやステージ通いをする方ではないと思っていたが、実は「生(Live)」のエンターテイメントがもたらす様々な種類の刺激や感動に、大いに支えられていたんだと思い知らされた。

 

 

「アタッチメント」を演じ、歌い、踊る

「ねじまき鳥クロニクル」は、2020年2月に初演を迎えており、途中コロナ禍の影響で公演を中断した舞台だ。私が観に行くことにしたきっかけはダンサーの友人に誘われたことだが、「一度中断を余儀なくされ、あらためて再演することになった」という舞台だからこそ、余計に観てみたいと感じた。ただの観客である私ですら、「再演できることになって本当によかった…」と思えるのに、作り手の人たちの想いたるや。そしてこの3年半の間には、ウクライナやガザでの戦争があり、いまこの作品(途中に「間宮中尉の長い話」というとても有名なパートがある)を観たいという気持ちもあった。

まだ公演が続いており、できれば多くの人に「観たい」と思ってもらいたいので、あまりネタバレをせずに感想を書こうと思う。途中に15分休憩を挟む3時間で、内容はとても良かった。ラストシーンは決して派手ではないのだがジーンとしてしまい、「ああ、ひとつの冒険を見届けたなあ」という気持ちになった。イスラエル人の演出家インバル・ピントさんは、演出だけでなくダンスの振り付けと、美術も合わせて行なっており、全体に統一感がある。舞台装置や衣装は、多くの要素が削ぎ落とされていて美しく、そして時折、チャーミングにも見える。そのため非常にシビアな場面が続いても、重苦しくなりすぎないという印象が残る。原作は小説であるし、基本的には登場人物の台詞が物語を前に進めていくのだが、ダンスがあり、歌があり、音楽の生演奏があるため、多くの台詞があっても間延びしない、退屈をしない舞台になっていると思った。

 

私は村上春樹については、熱心なファンではないが、まあまあ読んできた方ではないかと思う。ただ長編小説については途中で挫折したものが多い。ねじまき鳥クロニクルについても、一巻くらいで挫折したのではなかったか。ただ、間宮中尉の独白については、すごいインパクトで当時も話題になっていたので、覚えていた。

劇場で販売されているパンフレットによると、この「ねじまき鳥」は、村上春樹が「デタッチメント」から「アタッチメント」に向かうターニングポイントのような作品らしい(スラブ文学者の沼野充義さんによる解説、パンフレットP.36)とても分厚い原作3冊を、3時間の舞台で見せることができる理由は、「アタッチメント」=主人公が、他者に対して積極的に関与しにいくこの物語が「冒険譚としてよくできていて、面白い」からだと思う。観終わって振り返ると「活劇」という意味で新海誠の映画を想起したりもするのだが、それは新海誠が村上春樹のファンだから、というのも関係するのだろう。

 

劇場で、この舞台の宣伝をするPOP を書いてSNSに投稿すると、インバル氏のデザイン画ポストカードがもらえるという催しをやっており、休憩時間に5分で書いてみた

 

これもまた沼野さんの解説に書いてあったことだが、この作品が世界中で翻訳され、愛されている理由は「現代の日本、オカルト的と言ってもいいようなファンタスティックな世界、歴史の深い闇という三層が織り重なった総合小説」であり、この三層が重なり合うダイナミックな物語構造は「演劇的な仕掛けによって新たな表現を生むはず」らしい。今回舞台を観て、舞台表現というのは、固有名詞で名前を持つ場所と、現世かどうかもわからない謎の場所、あるいは心象風景でも、とにかく非常に行き来しやすいのだなと感じた。「世田谷の井戸」「どこだかわからないホテル」「満州とモンゴルの国境付近」など、今ここがそうです、と言われれば、そうとしか見えない。

同時に、原作小説には「わざと抽象的に表現されている事象」がたくさんあることもわかる。それが村上春樹作品の持つ魅力だし、力なのだとあらためて気付かされた。たとえば綿谷ノボルについても、どこかの誰かに限定されるものではなくて、「綿谷ノボル的な下品さ」とか「綿谷ノボル的な悪意」とか、誰にでも湧き上がる可能性のある感情などにも入れ替えられるように作られているのだと思う。

 

色々書いてきたが、「自分のことをそこそこまともだと思っている、『だがあまり物事を深くは考えてこなかった』男が、ある日突然に大切なもの(妻)を奪われてしまい、取り戻すために井戸に潜って冒険をする」というこの話は、あまり予備知識なく観てもシンプルに面白い。なので「毎年ノーベル文学賞を取りそうで取らない村上春樹が原作だ」とか、あまり深く考えずに観にいくと良いのではという気がする。近年「やれやれ」が出てこなくなってきた村上作品だが、舞台では「やれやれ」が出るのか出ないのか、そこも一つ楽しみにしてほしい。印象に残るシーンはたくさんあるが、あえて挙げるとしたらやはり間宮中尉の長い話のくだり(吹越満さんご本人が提案した演出が多く含まれている*1とのこと。非常に細やかなお芝居にずっと息を飲みっぱなしだった)と、笠原メイから素敵な手紙が届くシーン(門脇麦さんが、ある種の100パーセントの女の子像を具現化している)だ。

 

笠原メイからの手紙   by kobeni × nijijourney

 

 

観る方もがんばるのが楽しい「観劇」

私が舞台を観るようになったのは2017年ごろからで、それまで舞台は「ちょっと難しそう」「金額が高い」というイメージがあり、近寄り難かった。テレビドラマで役者さんのファンになった*2のをきっかけに観劇に興味を持ったのだが、最初は「あの役者さんが生で観られる」というミーハーな動機だった。

今でも、「あの役者さんを生で」の喜びは動機のひとつだ(今回の舞台で間宮中尉を演じている吹越満さんのことは、実はずっと前からファンだった。「あまちゃん」よりもっと前だ)けれど、いま舞台を観る喜びはそれだけではない。

観劇を始めて気づいたのは、「観る方もかなり緊張する」ということだ。映画やテレビは当然のこと、コンサートなどよりさらに緊張する。おそらく「長い時間、退席することなく静かにじっとしていなくてはならない」という、観る側のルール、そして「今からここで演じることが全てであり、編集はできない」という、出る側のルール。その両方が緊張の原因になっていると思う。別にちょっとぐらいセリフが飛んだって、モノが倒れたって全然構わないのだけど、それでも出る方は成功したいと思っているに決まっているだろう。だから観客としても、祈るような気持ちで観てしまう。

見方として間違っているかもしれないが、私はどんな舞台も、「サーカスを見る時」のような気持ちで観ているような気がする。「劇」というものが、綱渡りや、空中ブランコぐらい繊細なものに、私には見えるのだ。台詞の応酬だけでもすごいのに、そこに何度も舞台装置の転換があったり、歌やダンスまであったりもするなんて。でも、ここまで観てきたいろんな舞台で、大きな失敗や破綻は体験したことがない。裏方の方々も全員含む、この道のプロの仕事には本当に惚れ惚れする。観客席で、勝手に不必要なまでに緊張しているのだが、私はこの緊張感が好きなのだ。

 

舞台が好きなもうひとつの理由に、「映画などに比べるとスカスカしている」ところがある。スカスカ、というのは貶しているのではなく、観客である自分も頑張る余地がある、という意味だ。「舞台は固有名詞のある場所から心象風景まで常に行き来しやすい」と前述したが、本当に小さい劇場だと、舞台の上に椅子しかない場合もある。その椅子が、公園のベンチになったり、ファミレスの四人がけソファになったりするのだ。周囲が真っ暗で何にもないから逆に台詞の応酬に集中できる、という場合すらある。

観る方も色々と心を動かすのに忙しい、それも舞台の楽しさである。

 

そして当然のことながら、「今まさに目の前でお芝居をしている、踊っている、歌っている」という人が発するパワーはものすごい。間合いとか、息遣いとか、スムーズで美しい手の動きとか、あるいは荒くけたたましい足音とか、それらによってメッセージがより強く伝わってくる。「ねじまき鳥クロニクル」の場合は、歌やダンスに加えて大友良英さんらによる生演奏(ほぼ即興らしい!)がついていたので、歓喜はより歓喜に、絶望はより絶望になって届いてくる、と感じた。

 

最後に舞台はなんと言っても、カーテンコールが素晴らしい。私はむしろカーテンコールを見るために舞台を観に行っているのではないだろうか。それは流石に言い過ぎか。さっきまで舞台上にいたのと、なんだか全然違う人のように出てくる演者が好きだ。先程までここで起きていたことは、現実世界と切り離されたひとつの「作品」であるということを、カーテンコールの存在がよりくっきり見せてくれる。

すごくホッとした顔の人、役の顔よりムスッとしている人、走ってくる人、恭しく頭を下げる人、おどける人、とにかく色々だ。ただ、彼らは一様に「どうでしたか?」という顔をしている気がする。それに対して「すごく良かったです!」という気持ちで拍手を送る、それができることが嬉しい。スタンディングオベーションとか、体験としてはもう最高である。ステージ上も観客席も、劇場にいる赤の他人同士が全員、ほんのひと時だけれど間違いなく一体となっている、この世界においてとっても稀有な、幸福感に満ちた瞬間だろう。

 

「話す」「叫ぶ」「密着する」「踊る」「歌う」「演奏する」「拍手する」……そういうことが当たり前にできるようになって本当によかったなと思う。ブラボーだと思ったら「ブラボー!」と叫んでいい日々が戻ってきて良かった。

コロナ禍をきっかけに、「エンターテイメントがもたらす刺激や感動に支えられていたと気づいた」と前述したが、結局、芸術のようなものが世界のどこかでねじを巻いていないと、人間はだんだんと堕落してしまい、例えばリモート会議のカメラも「もういいや」とオフにしてしまう、想像力をどんどん駆使しなくなってしまうのではないか……と、今の私は半ば本気で思っている。「ねじまき鳥クロニクル」の舞台を観た3時間は、「普段考えないようにしていることを、井戸に入って集中して考える」ような時間だった。

 

今日もどこかで誰かが「どうでしたか…?」という顔をして、カーテンコールに立っている。世界のねじを巻くお手伝いができるなら、これからも何度でも、舞台を観に行きたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

ねじまき鳥クロニクルは絶賛上演中です。大阪、名古屋公演もあるようです。ぜひ観に行ってみてください。

horipro-stage.jp

 

 


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これまでの観劇日記はこちら

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*1:11/10のねじまき談話室にてご本人が仰っていました

*2:ひとつ前の記事を見てください^^