kobeniの日記

仕事・育児・目に見えない大切なものなどについて考えています。

20-40代、働き盛りの皆さん(特に男性)に知ってほしい「風疹」のこと

 

風疹が東京を中心に大流行中ということで、このニュースをずっと気にして追いかけています。それには理由があって、私は今から4年前の妊娠中に、初期の血液検査で「風疹の抗体が非常に低い」とお医者さんから言われた経験があるからです。いま、風疹の感染源となっているのは20-40代の男女、むかし予防接種をしていない世代だと言われています。で、よく考えたら、「はてな」ってこの世代の男女、特に男性がよく読んでるじゃないですか。私はどっちかというと男性、少しでも多くの男性にこの話を知ってほしく、ちょっと書いてみることにしました。
本文中の引用は、すべてNHKの「ストップ風疹」サイトからです。

http://www3.nhk.or.jp/news/stopfushin/


「ことしに入って国内の感染者は2000人を超え、去年同時期の20倍以上と過去最悪のペースで感染が広がっています。
患者の8割近くが男性で、その大半が20代から40代です。
なぜこの年代の男性に風疹患者が多いかというと、子どものころ、予防接種の対象ではなかったり、対象であっても受けていなかったりして、抗体がない人が多いためです。」



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■  妊娠初期の女性が風疹に感染すると、赤ちゃんに障害が出る恐れ

先日、職場の人に「なんか、妊婦の風疹が流行ってるらしいね」と言われました。惜しい。ちょっと間違っている、惜しい。けど、ニュースをじっくり観ない限り、一般的な認識はこのくらいで当然だろうと思います。ほんとうに妊婦がバンバン風疹にかかっていたら、かなり問題なのです。特に妊娠初期は、人間の体ができていく、とてもナイーブな時期なので、最も気をつけなければいけません。しかも、妊娠した後に(風疹抗体がない・風疹にかかったことに)気づいても、もう予防接種が射てないし、かかってしまっても薬も飲めないのです。


「妊娠20週頃までの女性が風疹ウイルスに感染すると、おなかの赤ちゃんが目や耳、心臓に障害が出る「先天性風疹症候群」で生まれる可能性があります。

その確率は妊娠初期に感染するほど高く、妊娠1か月では50%以上、2か月で35%、3か月で18%、4か月で8%というデータがあります。」


私はお医者さんに「風疹の抗体が非常に低い」(仮に過去に予防接種をしていても、時間の経過と共に抗体が減っちゃう、ということがあるらしい。接種をしたかどうかは、自分も親も記憶があいまいで、分からなかった)と言われ、どうしたらいいですかと聞いたら「人ごみに行かないとか、自衛するしかない」と言われました。先天性風疹症候群のことを、恥ずかしながら当時は妊娠するまで知りませんでした。だから事前に予防接種もしていなかったのです。妊娠発覚してからの検査で「抗体がない」と分かっても今さら手の打ちようがなく、「かかりませんように」と祈るくらいしかできないのです。2008年ごろは、ここまで風疹が流行していなかったですし、私はかからずに済みましたが……ちなみに出産後しばらくして、近所の病院で予防接種をしました。


■ 「私は妊娠初期です」と言ってまわる女性はいないし、自分でも気づいてないかもしれない

妊娠が発覚したらすぐに仕事を辞めて、家で引きこもっていれば、仮に風疹抗体がなくても、安全に妊娠期を乗り切ることができるかもしれません。けれど、私はそれが現実的に難しいと思っています。
まず、妊娠初期というのは自然流産(妊婦に問題があるのではなく、胎児の染色体異常などで起こるもの)も15%程度はある時期で、赤ちゃんが無事に育つか分かりません。無事に育つか分からないのに、仕事を辞めるって、けっこう難しいことだと思います。職場の人にいつオープンにするかも、この時期の妊婦さんは悩むものですし。それに最近では、妊娠が発覚したから退職しますという人は減ってきています。産休に入るまで仕事を続ける妊婦さんが増えています。
(感覚値でお分かりかとは思いますが、いちおう統計データだとこのあたり)
http://www.mhlw.go.jp/bunya/koyoukintou/josei-jitsujo/dl/11gaiyou.pdf

それから、よく考えたら妊娠初期って、本人も気づかないというケースもあるなと思いました。熱っぽいなー、風邪かな。ぐらいで、意外と気づかないこともあるもんです。


「妊娠していることに本人や周囲が気づかず、『無警戒』な時期に感染してしまうおそれもあるのです。最近の報告では、身近に風疹にかかった人がいないのに感染する妊婦が相次いでいます。生まれてくる赤ちゃんを守るためには、多くの人が風疹にかからないように予防することが重要です。」


現実的にはもちろん、まず妊娠を考えている女性と、その夫など周囲の人が、事前に予防する(妊娠する「前に」予防接種をする)という形を取るしかないだろうと思ってはいますが…。インフルエンザなどは企業活動に与える影響も大きいので、企業単位で予防接種をしていたりします。が、風疹は現時点でそこまでしている企業はまだ少ないと思う(社内で一斉に予防接種を行う企業も出てきてるみたいです! http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130508/k10014423081000.html

)ので、個人が自主的に接種に行かなくてはいけません。忙しい毎日の中で、しかもこんなあったかい季節に予防接種に行くの、ちょっと面倒くさいですよね… けれど、もしかしたら職場に、通勤電車に、街中に、妊婦予備軍とか、既に妊娠中の女性、それに気づいてない女性、その夫がいるかもしれない。と考えて、よかったら予防接種に行ってもらえたら嬉しいなと思います。

それから管理職やリーダーなどの立場にある方は、もし職場で、風疹にかかった人が出た場合、感染力がかなり強いので、警戒するためにも情報共有をしてあげてほしいです。

「風疹の免疫がない人の中に患者が1人いた場合、何人の人にうつすかを示す指標では、インフルエンザは1〜3人であるのに対し、風疹は5人〜7人と言われています。」



■ というか、かかった本人(大人)もかなり辛いらしい

とはいえ、やっぱり自分には関係ないと考える人も多いかもしれません。けれど、「うつさないため」の前に「自分が辛くならないため」に…予防接種をしてみてはと思います。

「『風疹は子どもがかかる病気』だと思って油断してはいけません。成人の風疹の多くは、1週間程度で症状が治まると言われていますが、中には風疹のウイルスによって脳に炎症が起きる「脳炎」と診断されたケースもあります。重症に至らないまでも、40度近い高熱が数日間続いたり、血小板が減少して入院するケースもあります。1週間ほど仕事ができなくなることが多いため、 仕事や生活にも支障が出てしまいます。」


なにこれ普通に辛い……!こんなぽかぽか陽気なのに、一週間も寝込みたくないよね!子育てしていると、子供がよくかかる病気の感染力の強さにビックリすることがあります。水ぼうそうとか「●●ウィルス」とか、ものすごいスピードでクラス中に広がりますからね… 風疹は特効薬がないみたいで、(子供に流行る病気ってそういうのも多い)対処療法しかできないのも辛いところです。


ということで、本日は良識ある、主にはてなー男性の皆さん(もちろん女性も)に、自分の経験から「ストップ風疹」について書いてみました。最近では、予防接種について助成をしている自治体もあるので(※残念ながら、妊娠を予定している女性や妊婦の夫など、助成対象が限定的な自治体が多いですが)まずご自分のお住まいの自治体のHPをチェックしてみてくださいね〜。


「市区町村によっては、接種費用の一部または全額を助成するところもあります。市区町村のホームページをご覧下さい。
東京都内や近郊の自治体の補助制度については、東京都感染症情報センターのサイトをご覧ください。」

http://idsc.tokyo-eiken.go.jp/diseases/rubella/vaccine/

 

追記:今は風疹単体の予防接種は品薄らしいという情報を頂きました。MRといって、風疹・はしかの混合ワクチンなら在庫があるようです。

 


【参考】

ストップ風疹のCMに出られているお母さんのブログ。
いろいろとグッと来ます。勇気を出して啓蒙活動されてて尊敬。
http://ameblo.jp/boo-to-cotton/
CMはけっこうNHKで流れています、サイトから見ることができます。
http://www3.nhk.or.jp/news/stopfushin/

クローズアップ現代」で取り上げられていました。なぜ予防接種が徹底されていないか、などの歴史的な経緯も分かります。http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3344_all.html

ブログで文章をうまく書く方法


お友達のいちのせきさんから、こんな質問を頂きました。


 

あらためて「これってブログの文章の話?それとも仕事とかそれ以外?」って彼に聞き直したら、ブログ(不特定多数の人を相手に発信する)だと言われました。
すごく正直に書きますと、聞かれなかったら絶対に書かないですね……恥ずかしいもん。なのでこのエントリはUP後一時間以内に自動的に消滅します(ウソです)。しかし、大切なお友達に聞かれたことですし、インタビューズやってないからブログで回答してほしいと言うので、需要は少ない話だと思いますが、ここにキチンと書きますね。



えーと質問はなんでしたっけ、はてなはどうして書き手にお茶を出さないのか?違いますね。文章術の話です。


昨年放映された「プロフェッショナル 仕事の流儀 イチロースペシャル」で、イチローが(彼にとって非常に珍しい)バッティング不調について聞かれて、こんなことを言っていました。

 
バッティングや技術のことって、「見てる人」にとってそんな大したことじゃないと思うんですよね。「どうやってこの人が生きているんだろう」、ということが大事であって。


番組でもかなり冒頭の方で流れた発言だし、その後、具体的なバッティングの感触についても語るようになるので、強がり?からの一言からもしれません。けれど私はこの発言に、イチローの仕事観、野球観みたいなものを垣間みたような気がしました。
「バットのこの辺に当たるとよく飛ぶんですよ、けど今はこのあたりに当たってます」というような話は「大したことじゃない」と言っているわけです。自分がホントに見てほしいのはそこじゃない。試合の結果だけでもない。スランプも含めて野球というものに向き合う姿勢・生き方を見てもらうことが、自分が野球を生業としている理由だ。と、言いたいのかなと思いました。

イチローには、「自分のプレイを通して、なにか伝えられることがある」「それは『野球』でなければいけない」という想いが、あるんじゃないでしょうか。



■ 誰も待ってないからこそ、動機とテーマが大事です

文章も、「技術」はもちろん必要です。しかし誉めて頂けるのは嬉しいのですが、私がブログを書く上で駆使している文章術に、たいしたものはありません。せいぜい「起承転結」の流れを大事にする(起承転結ってホントに侮れないと思う)とか、見出しを乱立させないとか、内容を歯切れ悪くして炎上気味にさせないとか、よくホッテントリに上がってくる文章ライフハックに書いてあるようなことしか(あと、はてなで血を見た経験から体得したことしか)、守っていません。


それよりも大切なのは、「なぜ書きたい・なにを書きたいのか」「ブログという手段を選んだ理由」という、動機の部分ではないでしょうか。ブログのような、「他者が目的を設定してくれない」言い換えれば「誰も待ってない」ものだからこそ、これが大事だと思うんです。
「動機、とか言えるほど高尚なテーマを選んでない記事も多いじゃないか」って?違うんです、その記事には、「くだらないことをやるべきだ」という強い動機があるんですよ。


たとえば昔、「たまーに会うお義母さんの話を上手に聞く方法」という記事を書いたことがあります。一見、「なにフザけてんの」と思われるような内容かもしれません。でもですね、母親になると、「えっ、それ小町の釣りトピじゃないですよね?」という、正直ドン引きするようなエピソードも、ママ友から実話として耳に入ってくるんですよ。好きな人と結婚するとか、子供を持つとかいう割とベタな欲求を叶えるために、なぜ付属物としてこんな地雷がついてくる必要があるのか……!とビックリしたんです。でね、そんな付属物(地雷)に深刻になると辛いから、「せめて笑い飛ばしていきたいよね」と思ったわけです。吹き飛ばされるのではなく、吹き飛ばしたい!記事を書いた裏には、例えばママ友とか嫁姑問題とか、そういうのを同世代と共に、ネタ的・メタ的に笑ってなんとか切り抜けたい。という動機がありました。


必要な技術は、それらの動機によっても異なってきます。説得したい場合と、読後なんとなくいい気分にさせたい場合では、採用すべき文体も論の展開の方法も異なるでしょう。やはりそんなことより、強い動機とテーマ設定を持った方がいいです。そっちを探す方が、実は簡単じゃないように思います。


■ 書けなくなったら、どうするか

ところでイチローさん(「さん」づけすると変ですね)の場合、最初は「野球が好き、他の子よりズバ抜けて得意」といったところから、野球人生を始めたんじゃないかと思います。けれど、ライフワークとして続けていくとなると、たとえ原点が「好きだから、楽しいから」だとしても、それだけではやっていけなくなる時が来るんじゃないでしょうか。
そういえば映画「魔女の宅急便」で、キキがある日突然、空を飛べなくなるエピソードがありますよね。「これまでは、何も考えずに血で飛べたのに」。彼女も、飛ぶことをライフワークにする(具体的にはニシンのパイを運んで、「あたしこのパイ嫌いなのよね」と言われるなど)中で、なぜ飛ぶのか?という動機に迷いが生じた時、飛べなくなった…のかもしれません。「ほんとうに私が宅急便をやる必要なんてあるのかしら、だってこの街には佐川さんやヤマトさんがいるじゃない、私にはクール宅急便なんかできないし、雨の中飛ぶだけで風邪引いて閉店って、どうなのよ……」

何度も書きますがブログって「誰も待ってない」です。読んでもらえる理由の9割は「タダだから」だと思った方がいいです。「ネタがない、書けない」からといって、やめても誰も困りません。悲しむのは、はてなの近藤社長ぐらいです。いや、私は、このブログの「読者になる」ボタンを押してくれた約90名(2013年3月現在)の方のことを神様だと思っていますので、もちろんやめずに続けたいですが、たぶん神様たちも日々、ブクマとか「いいね!」とか保育園送り迎えとかPASMOのチャージとかミスの経緯書を書くとかで忙しいと思うのよね。だから私が更新をやめても、きっと気づかないと思うのよね……。

「ブログのネタがない、どうしよう」大丈夫!誰も待ってないから。そういう謙虚な気持ちからリスタートしましょう。そもそも、あなたのブログを「見てる人」は誰でしたっけ。どうして書き始めたんでしたっけ?表現方法って文章が適切なの?ホッテントリに入りたい?それとも、ひとりでも待ってる人のために書いてるんでしたっけ。というか、あなたのやりたいことって、ブログじゃなきゃできないんでしたっけ……?


■ いつも「見てる人」と共に

さすがにブログにイチローほどの覚悟は必要ないと思うのですが、それなりに続けていくためには、こういう振り返りは必要だと思います。いつも気持ちは、「見てる人」と共に!そこから、他の人と自分との違いや、自分なりのこだわり、なぜこれからも書き続けたいのかを、あらためて模索するってことですかね。ブログはアマチュアが参入できるところ・必ずしも、採算を考えて一定数の人気(売上)を優先しなくていいところが利点ですし、技術の話に関しては「こまけえことはいいんだよ」です。ホントにそう思います。本来はブログを読む側も、たとえ書き方が拙くても、熱量がすごくあるとか、なにかキラリと光る視点を持っているとか、そういうところに着目したいものです。サラッと読んだ通りすがりの人が、誤読したり揚げ足とってdisって、みたいなことで、せっかくの良ブログが閉鎖されてしまうとか、すごくもったいないと思う。あまたある素敵なブログの、技術でない部分に注目してみてほしいです。

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まあ、はてな村ではきっと過去にも、同じような内容を様々なブロガーさんが繰り返し語っていると思います。私も同感だ、ってことですね。
私の動機は何か?記事ごとに違いますが、過去ログで感じてもらえたらと思います。動機が尽きたら、あっさりやめると思いますけどね。


イチローは確か、ねちっこく自分流のバッティングを貫いて、長い長いスランプを抜けたんじゃなかったかな。自分を見失わなかったイチロー、マンハッタンの摩天楼にある自宅で柴犬飼ってて「古畑任三郎」観てたイチロー、カッコよかったなー。

 

※あまりに何も文章術のことに触れないのも何なので、繰り返し読んでるって本だけ貼っておきます。

 

広告コピーってこう書くんだ!読本

広告コピーってこう書くんだ!読本

今はSNSで、個人が自力で広告できる時代ですし、仕事が広告関係でない方でも参考になると思います。初心者を意識してて、あまりテクニックに流れすぎない、めちゃくちゃ地に足がついた内容だと思います。

 

サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3

サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3

小沢健二作品集 「我ら、時」

小沢健二作品集 「我ら、時」

エッセイは、文章が伸びやかで小さな発見がたくさんあって、楽しいですよね。村上春樹さんの村上ラヂオと小沢健二くんのドゥワッチャライク(作品集の中に復刻版が入っているよ)が大好きです。

ブログをお引っ越ししました/「個人的には」という言い回し


こんにちは、kobeniです。はてなダイアリーでブログを始めて、そろそろ4年目になりますが、はてなブログにお引っ越しをしました。ダイアリーにもまだアクセスできる状態ですが、過去ログもこちらに移動しました。今後はこちらで書いていきますので、どうぞよろしくお願いします!(今すぐサイドバーの「読者になる」ボタンを押しましょう…押すのです……)
ヘッダや記事体裁のデザインは、またもbandicootさんにお願いしてしまいました。かわいいし読みやすいから、PCで読んでほしい!ヘッダは時々、着せ替えしたりする予定です、うふふ。


毎年、年末にブログを振り返ると、「更新頻度が低すぎるorz」と落ち込むのですが、今年は、過去ログもたまってきたことだし、自力で薄い本でも出したいなぁ…と夢想しています。はてなブログは過去ログを辿りにくい(なぜ「記事一覧ページ」がなくなってしまったんだろう)ので、余計にそんな風に思います。自力薄い本発行について、なにかアドバイスとかリクエスト(?)とかあれば、お気軽にブクマやTwitterのメンションでください。新しい記事とかも載せたいなあ。

 

 

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 (特に深い意味はありませんが猫が見ています)


さて、ブログのお引っ越し告知だけでは退屈なので、もうひとつ小話でも。

最近、Twitterなどで発言する時に、しょっちゅう「個人的には」とつけて書いてるなあ、私…と気になっていました。なぜこんなに「個人的には」を多用してしまうのか?ちょっと考えてみたくなりました。
Twitter上で「個人的には」で検索すると、たくさんツイートが出てきます(自分のや友達のも含まれていて、ちょっと笑ってしまいました)
どういう時に使われているかというと、例えば…

● 他が好きという人もいるだろうが、自分はこれが好き(別の好みに対する配慮)
● いろんな意見があるだろうが、自分はこう思う(別の意見に対する配慮)
● 他の人は違う思いを抱いているかもしれないが、自分はこう思う(関係者・組織・団体・ファンなどなんらか所属に共通点を持った他者に対する配慮)


などでしょうか。

自分以外の人の、異なる好み・感想や意見に対して、「あくまで他者を否定するわけではないが、自分はこう思う」と述べたい時に使われているように思います。「押しつけてるわけではありませんからね、これが全体の総意・結論ではないですよ」といったニュアンスでしょうか。「多数派の意見に比べ、私のはちょっと変である事は自覚している」みたいなニュアンスもあるかも。
自分の好み・感想や意見を述べたいけれど、それによって、「違った人を傷つけることがあってはよくない」…という配慮と取れます。あるいは「違っているがために、私の発言を見てムッとした人や傷ついた人から、無用な反論をもらいたくないのです」という予防線、とも言えるかもしれませんね。意見が割れやすいナイーブな問題ほど、婉曲表現として使いたくなります。

私の場合、リアルで会話する時に、「個人的には」なんて言い回しを多用していたという記憶がなく(普通に「私は●●が好き、●●だと思う」と言っていたような気がする)、どう考えてもブログやTwitter上に何かを書く上で使い始めたし、「個人的には」を使う時はそこがオンラインであるから、ということを強く意識しているような気がします。まあ、それだけかつては厚顔無恥だった、とも言えるのですが。

ブログで何か文章を書く時も「〜です」「〜だ」と言いきるのではなく「〜だと思います」と書きたい時が頻繁にあります。私のブログは、エッセイ的な文章が多く、社説のように論じて説得したい記事が稀だからでしょうか。「〜と思います」というのは、せいぜい私の主観であって根拠は薄いけどね、ということを意図している気がします。
(私はあまり論文を書いたことがないのですが、論文を書く時などは「思う」や「思います」はあまり使用してはいけないのではないでしょうか?イメージですが論文として文章を展開していく時には、主張を断定的に述べて、その論拠を提示していく形なのかなと。ジャンルにも依るのかな?)

主観に反論するのは難しいことです。だって、意見は色々あっていいし、好みも、もちろん色々あっていいはずだから。本来すべての嗜好や主張は「個人的なもの」であるはずなんですよね。ただ、つけないとなんだか声高に言っているように見えたり、断定的に述べている・押し付けているように見えるのか?それがイヤでつい「個人的には」をつけるのでしょうか。
ツイートという、140文字制限があるこそ、「ちょっと思った」程度のことを書きたくなる。そこまで深く考えて論拠を長々と述べるつもりもない。そこで、予防線を張りたくなるのかもしれません。
強く球を投げればそれだけ、言葉が届く時のインパクトも強いわけですが、そうなると相手も、受けたインパクトと同じくらいの強さで反論を返してくる可能性がありますからね。ちょっと、オブラートに包みたくなりますよね。

SNSでみんな、何かしら書きこみに反論されたり、自分とはまったく異なる考えを目にする機会が増え、他者の存在を強く意識するようになった結果かもしれません。私もブログで記事を書く時は、数パターン「これを読んだらこのように腹が立つ人や悲しむ人がいるかもしれない」と想像してます。けれど、想像したからといって書くのを止めることはありません。当然、共感したり発見したり、「よく言ってくれた」と思ってくれる人もいる、と信じて発言しているからです。

…しかし、一方で、最近のSNSは、みんなひと通り「無用なぶつかりあい」を経験した後だからか、似た人同士集まるツールになってきているような気がします。もはや「個人的には」をつけずに発言しても、よっぽどの有名人でない限り、真っ向からの反論はそんなに来ないのではないか?昔に比べ、勇気を出してハキハキ発言しても、あまり反論が来なくなってしまって、ちょっと拍子抜けすることもあります。


文章において、予防線を張りすぎると主張が不明瞭になりかねないので、もう少し「個人的には」を減らしてみようかなあ。なんて思っています。まあ、おそらく今後も使ってしまうでしょうけどね、個人的には。

 

おふくろの○○

お正月休みに、録画してあったドラマ「ゴーイングマイホーム」をまとめて観ました。去年の後半はなにかとバタバタしており、5話あたりからリアルタイムで観られなかったので、休み中に最終回までまとめて観ました。
ドラマの中に、郷土料理の「すいとん汁」が出てきます。それを見て「そういえば小さい頃、お母さんがすいとん汁をつくってくれたことあったなー」と思い出しました。
ドラマの中に出てきたすいとんは、ちいさくてまんまるくて美味しそうだったのだけれど、私の記憶にあるすいとんは、なんだかもっと巨大なかたまりで、これすいとんじゃなくて鬼まんじゅうじゃないの、という感じのものでした。しかも「あんまり美味しくなかったなー」という。
けれど、それはけして嫌な思い出ではなく、やはり懐かしい「おふくろの味」のひとつなのでした。


私の母は料理が苦手な人で、炊事に関して「ホントはやりたくないけど仕方なくやってる」感を常に漂わせていました。味噌汁のお腕から、だしパックがまるごと出てきたこともあったし、出された里芋が煮えておらず口の中が「イタイイタイ!」となったこともありました。そのくせ彼女は自然食品や流行り物の調理器具が好きで、なぜか我が家はご飯がデフォルト「胚芽米」だったのでした。近所の幼なじみの家で白いご飯(ふつうの白米です)を食べたら、すごく美味しくてビックリしたものです。実家には一度しか使われていないであろう、パン焼き器や栗原はるみグッズ的なものが少なからずありました。そういえば、「ゴーイングマイホーム」で山口智子さんが演じた沙江も私と似たような境遇で、母親の料理が下手なのが辛く、その反動で自分はフードスタイリストになったのだ。と述べるエピソードがありました。私はそこまで反面教師にしてはいないものの、やっぱり料理はもう少し上手くなりたいし、上手い方がいいだろう、とはいつも思っています。
子供との生活と料理はとても縁が深いものです。食事は毎日のことだし、食卓は家族がコミュニケーションを取るのに最も適した場だと言えます。だから、「おふくろの味」があるに越したことはないし、料理が好きで、子供に美味しくつくってあげられるのはとっても良いことだと思っています。
一方で、私がすいとんのことを懐かしく思い出すように、たとえそんなに美味しくなかったとしても、それはそれでひとつの思い出になるものです。そして、子供に残す「おふくろの○○」というのは、必ずしも料理でなくてもいい、という風にも思います。
うちの母の場合、料理はからっきしでしたが、「この家、本の雪崩がおきたら死ぬな」というくらい読書をする(そしてあまりキチンとしまわない)人で、私のための絵本や童話全集もたくさん揃っていました。また、四季の行事ごとをキチンとやってくれた思い出があります。七草をちゃんと食べるとか、ゆず湯・しょうぶ湯に入るとか、そういうことです。また、実家ではよくリビングや玄関に花を飾っており、私もその影響で花を飾る習慣ができました。




もうボロくなっているのですが、子供の頃読んでもらってた絵本を今は息子に読んでます


「おふくろの○○」は、もっともっと些細なことでもいいんだと思います。「剥きにくい蜜柑をひたすら剥いてくれた」とか、「夜中に『うさぎさんの大冒険』を即興で話してくれた」とか、そういうのでいいんです。考えてみれば、お母さんにも一人ひとり個性があるわけで、その人らしい「おふくろの○○」を子供にしてあげるのが一番ですよね。「おふくろの熱唱」でも「おふくろのまどマギ論」でも「おふくろのiPhoneアプリ」でも、なんでもいいんじゃないかなと思います。
料理が嫌いな母は、その時間があるなら本を読んでいたい、とひたすら読書していたのですが、料理の時間をあまり割いてもらえなかったから、私が不幸だったかというと、必ずしもそうでもない気もします。彼女が本で蓄えた知識は、私に「気の利いた人生のアドバイスをする」という形で返ってきました。私は母に、「早く結婚して孫の顔を見せて」的な、ある種大人のテンプレっぽい小言を言われた経験は一度もなく、問いかければもうちょっと変化球が飛んでくることが多かったです。色々と理屈っぽく考えがちな思春期に、彼女に議論をふっかけても必ず負けるので、こちらもふっかけがいがありました。


その人(父、母)の何が、結果的に子供にとって、良き「おふくろの○○」になるのかは、意外と後になってみないと、わかんないものなんですねえ。


ただ、当たり前かもしれませんが、おふくろの側としても、「子供が喜んでいるのかどうか」はいちおう、観察しなければなりません。子供が「趣味じゃない」と言っているのに、やたら自分の好きなタイプの洋服をつくって着せる、とか。下手すると「ニシンのパイ」的な悲劇を生むことになってしまいます。いくら自分が好きだからといって、毎度オカンアートみたいなものを自己満足的に渡されては、子供もイヤになってしまうのではないか…と思います。

まあでも、子供がまたおふくろぐらいの年になってくると、ちょっとくらいダサくても、親がくれた服を着て会いに行く。くらいのことはできるようになりますけどね。親心を着る、という感じでね。


「ゴーイングマイホーム」で、プロの料理人である沙江の料理が「おふくろの味」になった、つまり沙江が「おふくろの味」のなんたるかを悟ったのは、ドラマも終盤の頃だった…と思います(沙江には一人娘がいます)。ベタな話ですが、「ホーム」をつくるのも、「おふくろの○○」をつくるのも、形式や体裁ではなく、気持ちがどこへどのように向かうかが大事。ということなのでしょう。それにしても(低すぎる視聴率とは裏腹に)色々と心に残る台詞のある良いドラマだったので、未見の方はぜひ、今後DVDなどで観てみてください。

あなたは、どんなタイプのWEB女子ですか?「久谷女子便り」第五号出るよ!


※通販も始まりました!こちらからどうぞ。

久谷女子便り第五号『いま、改めてWEB女子とは何か』 - 久谷女子 | アリスブックス



みなさま、お久しぶりです。今年も、大規模なイベント(冬)の季節がやってきましたね。きょうは告知です!WEBをこよなく愛するこじらせ女子集団「久谷女子」のコラム本最新号が、冬コミで販売(頒布?)されます。私は前回の四号「WEB女子と萌えについて」から参加している新入りなのですが、今回も豪華なメンツに混じってコラムを書かせて頂いています。

久谷女子便り第五号のテーマは、「いま、改めてWEB女子とは何か?」です。表紙や中のデザインも一新したリニューアル号で、ボリュームはこれまでの倍の80ページ!となっています。


WEB女子=WEBを活用している女子、というだけでは、その存在が珍しくなくなってしまった昨今。それでも「私はWEB女子です」と名乗り続ける我々は、いったい何者なのか?この時代にWEBを愛し、かつ女子であることは、いったいどういう意味を持つのか?メンバー一人ひとりが真摯に考えているのが今回の第五号です。「私も昔からWEBが好きだけど、それがどうしてなのかよく分からない。ちょっと知りたい」という人や、「女性っていうより『女子』って名乗る方がしっくり来る。けど、それとWEBって関係あるのかしら」という人は、読むとなにかモヤモヤがスッキリするかもしれません。
私は今回、自分の黒歴史を語ってみました。ブログだとちょっとなんか恥ずかしくてできないなと思ったのですが、田舎から東京に出てきて色々あって(挫折とか挫折とか挫折とか)、それが今の(WEB好きな)自分にもつながっているような気がしたので。同世代で地方出身の人などには、もしかしたら共感してもらえるかもしれません。書いていて、「私ってすごく90年代的な人間だな…」と思いましたけど。

インタビューやゲストも豪華です!まず、はてな村の皆さんに注目して頂きたいのは、社長(jkondo)と村長(kanoseさん)がインタビューに登場しますよ、ということです。そう、久谷女子は、はてなが大好きなのです!近藤さんがいかにして伏し目がちな男子から、表参道にオサレオフィスを構えて人前でもプレゼンできるようになったのかがじっくり語られています(語られてるか…?)。また、「狙った獲物はブクマする」村長が、人類最強のヲチ術をじっくり語っています。たまに村長に無言ブクマされるとこう…背筋が冷たくなる…いや背筋がピンとなりますよね!
あとは、巻頭にはあの、はあちゅうさんのインタビューが。これを読んで、私もはあちゅうさんのファンになってしまいました。そしてまみぺこさん、もぐもぐさん、灰色ハイジさんなどゲスト女子もとっても豪華です。

チラ見せがこちらにあるので、試し読みしてみてくださいね!
<刊行物>久谷女子便り第五号 | Facebook



■ WEB女子なのに紙メディア?イベントがあるそうです

久谷女子の皆さんはマスコミ関係で活躍されている方が多いので、文章とか編集作業に皆が長けている感じがあり、本誌も「プロが本気でつくった遊びの本」みたいな感じの仕上がりになっています。ちょっとした裏話でいくと、編集作業などもオンラインをものすごく駆使して進められています。けれど「久谷女子便り」自体は、メディアはずっと紙です。私にはなんとなくその理由が分かる気がするのですが、そのあたりの話は、29日のリアルイベントで語られるみたい。(ご紹介して、既に満員になってしまってたら、すみません)
イベントについては、詳しくはこちらをどうぞ。登壇される岡田育さんの記事です。行けない方は、ハッシュタグを見るとよいかもしれません。
12月29日(土)下北沢B&Bイベント出演 | okadaic.netokadaic.net


■ ポスドクのあなたも注目!「博士メガネ男子本」も出るよ

久谷女子の中には「メガネ男子同好会」という分科会がありまして、そちらも新刊の薄い本を出します!前回は、芥川賞を取った田中慎也さんに全力で萌える「不機嫌メガネ男子本」だったのですが、今回は…「二人目のシンヤ」、山中伸弥教授に全力で萌える、ノーベル賞受賞記念「博士メガネ男子本」です!

そういえば「不機嫌メガネ男子本」で文フリに出た時、女子が多く買って行くのかな?と思ったら、男子もたくさん買いに来てくれました。まあ、皆さん、もれなくメガネかけてましたけどね…。今回も、文系理系問わず「研究職」とか「ハカセくん」って僕のこと?という男子の皆さんは、ぜひ買ってみてください。そしてメガネをかけてください。前回好評だった「メガネ男子マトリクス」、今回もありますので、「わー僕はここだー」「私の彼氏・夫はここだー」「私の博士(二次元)がいないとは何事!!」といった感じで、年の瀬を盛り上がることができます。ちなみに私はこちらでは「考古学非常勤講師 草壁タツオ」について熱く語っています。※トトロのお父さんです


長くなってしまいましたが、この「久谷女子第五号」と「博士メガネ男子本」が買えるのは、コミケ3日目東パ28bです!過去の総集編の販売もあるようですよ!皆様、ぜひどうぞよろしくお願いします。


久谷女子公式twitterアカウント 
久谷女子[通販中] (kutanijoshi) on Twitter
「久谷女子ってなに?」という方はこちら
WEB女子による同人サークル「久谷女子」とは何か - NAVER まとめ
はあちゅうさんのブログ記事でも紹介されています
久谷女子5号にてはあちゅうインタビュー掲載|伊藤春香オフィシャルブログ「はあちゅう主義。」

今、あえて「ポニョ」のリサについて熱く語る

皆さんは、この夏の話題作「おおかみこどもの雨と雪(リンク:映画「おおかみこどもの雨と雪」)」をご覧になりましたか?
私は公開して割とすぐに観て、感動してラストでボロボロ泣きました。ちょうど幼児の子育てまっただ中ということもあり、高いシンクロ率で鑑賞できたせいかと思います。あの作品はとても良かったと心底思っているのですが、観賞後からしばらく経って、主人公である母親「花」のことを考えれば考えるほど、「(「崖の上のポニョ」の)リサの方が好き!」という気持が募り、8月の金曜ロードショーのポニョ放映でその愛がMAXに達してしまいました。

せっかく、アニメの中の母親に興味を持ったので、リサについてもっと理解したい!と思い、お盆休みから、計12時間半もあるポニョの制作ドキュメンタリーを観ておりました。ドキュメンタリーといっても、その大半が「絵コンテを描く宮さん(宮崎駿)」と「原画チェックをする宮さん」の映像なのですが。
毎晩それを観続けた結果、「へー、宮さんって愛妻弁当のおかずをワンタンスープにつけて食べるんだー」とか「宮さんって、誰もいないアトリエの暗がりに向かって『おはようございます』って挨拶するんだー(←怖い)」とか、どんどんパヤオヲタになっていく自分がちょっと怖かったです。
通して観るだけでも大変だったのに、この12時間半のうち、リサがクローズアップされることはほとんどありませんでした…orz とはいえ作品についての理解はかなり深まったので、今あえて「崖の上のポニョ」のリサについて熱く語る!というのをやってみたいと思います。「おおかみこども」の花も、ちょっと出てきます。※長いです、すいません。しかしこの記事なら12時間半はかかりませんので、おつきあいください。



■少女のような、色気のある、お母さん

リサという人は宮崎アニメの中では、希有なキャラクターであると思います。宮崎アニメには女性キャラがたくさん出てくるし、主人公が女性であることも多いです。その中で「母親のような少女」はたくさん出てくるけれど「少女のような母親」はあまり出て来ないからです。

宮さんは人物を描く時に、その人を多面的に描いて深みを出すところがあると思います。女性なのに強い権力欲があるとか、少女なのに虫が好きとか、おばあさんなのに活動的とか。すばらしい人物には欠点があり、悪者にも愛すべきところがある、などのギャップがキャラクターの魅力を増しています。「少女なのに母親っぽい」もそのひとつ。子供たちに頼られ包容力のあるナウシカや厨房を取り仕切るシータ、実の母よりしっかり者のアリエッティなど、まるで母親のように成熟した一面を見せる少女はよく出てきます。
けれど、その逆の「母親なのに少女っぽい」キャラは、あまり出てきません。お母さんのキャラで目立つのは、魔女の宅急便のオソノさんや、ラピュタの親方の奥さん、ドーラのような「肝っ玉母さん」系。あるいはトトロのお母さんのような「病床の母」。これらはおそらく宮さんのお母さん(勝ち気な人だったそうです。宮さんが小さい頃、ずっと病気を患っていた)がモデルになっていると思われます。
もっと言うと、宮崎アニメの女性キャラから「(異性にアピールする存在としての)女」を感じることはあまりないような気もします。リサは母親だけど、少女らしさと女らしさも持ち合わせている点で、珍しいキャラクターだということです。



こういうとこは少女っぽい(「千と千尋」の千尋と同じ寝方ですね…)


これは新妻っぽい(夫の船が帰ってきて、金麦妻のように喜ぶリサ)

孫引きになってしまいますが、エヴァンゲリオンの庵野カントクと、ジブリの鈴木プロデューサーは、過去にリサについて下記のように語っています。


庵野・お母さんが宗助を置いて車で行っちゃうじゃないですか、で二人きりになるあたりから、まあ、あんまり乗れない感じ。それまではすごいよかったですよ。特にあのお母さんがいい。
鈴木・色気がありすぎるんじゃないか。
庵野・いや、それがいいんですよ。いままで宮さんになかったものじゃないですか。
鈴木・宮さんがね、あれは近藤勝也(作画監督)がやっていて俺じゃないからって。
庵野・そうそう、それがいいんですよ。いままでの宮さんにはできなかったこと。
鈴木・すっごい色気があるんだよね。
庵野・いいですよ、線だけでそれを出しちゃう。宮さんが手を入れてないところが良かった。あれにまた手を入れ直したらぶちこわしだったのを、そこをグッと抑えているのが大人になったというか、年を取った。
鈴木・さすがだな〜、よく見てる。(笑)

庵野秀明愛ゆえに宮崎駿を斬る!: シンジの“ほにゃらら”賛歌


■ 母である前に、一人の人

少女らしさや女らしさを残した母親を描くには、作り手が視点を子供側から親側に持たなければ難しいと思います。なぜなら、母親というものは基本的に、その子供に「少女らしさや女らしさ」など見せないよう振舞うからです。子供側の視点で母親を見ている限り、その人物が少し前までは女として人と愛し合っていたとか、さらに前は彼女もまた「娘」であったとか、そういうことはなかなか想像できないし、さして知りたくもない部分ではないかと思います。
おおかみこどもの雨と雪」には、ひとりの女性が母親になる前後の過程が丁寧に描かれています。細田監督自身が親になる年齢に近づいてきたことで、「それまでふつうの女性だった人が母親になる」という過程をドラマにしよう、と思えたのではないでしょうか。
実際に親になってみると、親もまた、ただの未熟な人間で、なんら完成された存在ではないということが分かります。自分の母親もまた、悩んだり試行錯誤して私を育てたんだろうなあと、親を一人の人間として見られるようになってきます。そういう視点から描かれるアニメがあってもいいだろうと思うのですが(アニメ以外のジャンルではさして珍しいことじゃない気もしますし)、作り手の年齢が親側に近づいてこなければ、なかなかそうは思えないかもしれません。

庵野カントクは宮さんを「年を取った」と評していますが、リサというキャラクター自体、晩年の宮さんだからこそ出てきた存在なのかもしれません。年齢的には既に、祖父の立場といえますから。



■ ピンクの花、青のリサ

リサは、息子に自分を「お母さん」や「ママ」ではなく「リサ」と呼ばせています。いちど「ママ」と呼ばせてしまえば、庇護する親−される子、という関係は日々どんどん固定されていく気がしますが、名前で呼ばせることで「私は母親である前にリサという一人の人です、あなたもその人と一緒に暮らす一人の人です」という印象がグンと増します。私もときどき、理不尽過ぎる息子のワガママに「君さ、この家のメンバーシップを無視したようなその発言はどうなの」とか言いたくなる時がありますが(言いませんが)、実際にマネするかどうかはともかく、映画においては象徴的であると思います。
「おおかみこども」の母親である花は、田舎に引っ越す前に、まだ乳幼児の子供たちに向かって「ねえ、これからどうしたい?」と聞きます。もし、いわゆる「母親」を強調するなら、あの場面では「お母さんね、あなたたちを連れて田舎へ引っ越そうと思うの。その方が、あなたたちにとっても良い未来になると思うからよ」といった台詞になるはずではないでしょうか。友達に話しかけるようなあのシーンは、母親になりかけていて、まだなりきれない彼女の、「一人の人」っぽさがよく表されていると思います。

ところでリサの「色気」って、いったいどこから感じられるんでしょう。また花との比較になりますが、細田監督が花に色気を加えたのは「農作業のシーン」らしいです。…確かに、畑を耕す時に、パンツがちょっと見えてました。リサは、あのトレンチコート(レインコート?)とか、サブリナパンツかもしれません。「麗しのサブリナ」といえば、ヘプバーンがパリ生活で大変身し美しくなって戻ってくる話ですが、リサには、「母親である前に女」の国・フランスのエッセンスがちょっと入っているのでしょうか。
リサは、服は青いのですが、車とエプロンがピンク色です。花は、全体的に服がピンク色。「少女」のエッセンスが、ピンクに残っている気がします。



■ 宗介一家がうまれた背景

ポニョのドキュメンタリーによると、リサはイメージボード(絵コンテより前の、作品の世界観をざっくり表したイラストの状態)のかなり初期の時点で、既に存在していました。紺色のピッタリした服を着て、不機嫌そうな顔をしているイラストがありました。
そんなに初期から居るのに、ドキュメンタリーでリサの話題はほとんど出てきません。彼女のことを知るには、その周辺情報で想像していくしかありません。
ポニョの舞台は、宮さんが書いた「覚書」(スタッフに世界観を伝えるための文章)によれば
「現代の日本を、ちょっと理想化する」と定義されています。
そして宗介一家について宮さんは、「作画監督の近藤さん一家」がモデルと言っていました。ちなみに、ポニョは、近藤さん家の娘さん(制作当時3歳)がモデルになっているそうです。
近藤勝也さんは、先述のインタビューにも出てきましたね。ポニョでは宮さんの次に偉い人くらいの立場でお仕事されていました。たぶん、毎晩帰りは遅かったことでしょう。リサが、「きょう帰れなくなった」と残業を告げる夫にブチ切れるシーンがありますが、あれは…近藤さんのことではないかと思います!近藤さんの奥さんがリサみたいな人なのかは不明なのですが、もしかしたら夫に「BAKAAAAAA」と言えるくらいは勝ち気な奥さんなのかもしれません。いずれにせよ、リサのキーを握るのは近藤さん、ということは間違いない気がしますね…ぶっちゃけ、いかにも奥さんにBAKAAAAって言われてそうな(言われてもニコニコしてそうな)優しそうな方でした…
(※この、キュートなキキを描いたの近藤さん)
新居浜物語(新居浜市公式ホームページ) > 新居浜市制75周年記念事業「ジブリの動画家 近藤勝也展」

おそらくですが、宮さんにとって、リサは「理想のお母さん」ではないと思います。映画の後半に出てくる、赤ちゃんを抱っこした、昭和のお母さんみたいな人を描いている時の方が、イキイキしてました。現代の母親とそのライフスタイルを、リアリティを持って描いた結果、あの家族の形にたどり着いたのではないかと想像します。
いっぽうで宗介には、幼年期の自分を重ねるくらい、思い入れている感じがしました。宗介を育てているのはリサですから、おのずとリサにも、ある程度の理想を込めて描くことにはなると思うのですが。



■ リサの子育てメソッド

宗介を魅力的な主人公にするためには、実質ひとりで子育てをしているリサの子育てメソッドが魅力的である必要があります。

宗介は、水道タンクがあるから水が出るとか、プロパンガスだから嵐の夜でもガスが使えるとか、そういうことを良く知っています。自分で火もつけられるし、サバイバル能力みたいなものを持っています。嵐の夜の、リサの行動を見ていると、ああいった自然の中に暮らす人ならではの、慣れた感じがありました。リサは、お勉強はあまり教えてなさそうな感じなのですが、火や水の扱いなどについては、宗介にしっかり教えているんだなと分かります。そのあたりは、宮さんの世界観、子育てに対する考え方が色濃く出ている気がします。
(ポニョと同時進行で、保育園を創ってしまった彼の子育て思想については、「虫眼とアニ眼」が参考になります)

虫眼とアニ眼 (新潮文庫)

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ちなみに私がリサを好きなのは、「子育てにおいて、自分で決めたライン以下はテキトーにやる」というところが、見てて気持がいいからです。リサはデイケアセンターで働いてもいるので、親業もある程度は手を抜かないとやっていけないんでしょう。私のTwitterのタイムラインには、リサが好きというママがけっこういました。テキトーなところもあるけれど、宗介を抱きしめるシーンは、映画の中で数回出てきます。ポニョと宗介を家に招き入れるシーンとか「やるべき時はちゃんと親をやる」というところが、とても好ましいです。

これは好みの話ですが、私は勝ち気でサバサバした人が好きなんです。「リサだったらこんなことで悩まないだろうなー」とか、そういう風に想像しちゃうくらいには、彼女のようでありたいと思う昨今です。除草剤に関しては怒りすぎですが。
山口智子さんの声が上手すぎて、(設定上の)25歳って感じが全くしないのですが、逆に子育ての先輩っぽく見えちゃいますね。



■ ポニョと児童文学

ポニョについては公開当時、賛否両論あったような気がします。「ラピュタ」のような活劇や「もののけ姫」のような強いメッセージ性を帯びた宮崎アニメに慣れた大人にとっては、ポニョのストーリーは「え、これだけ?」という風に感じられたのではないかと思います。
私がポニョを好きになったのは、子供に絵本を読んであげる習慣ができた後でした。絵本を色々読んでいると、子供にとってどんなお話が魅力的なのか、いつも考えさせられます。わけがわかりすぎても良くないし、わからなすぎても良くない。子供は大人よりも、ずっとずっと想像力がたくましいですから、生半可なファンタジーや予定調和の物語じゃ、相手ができないのだと思います。ポニョを絵本と同じように、ある種の児童文学として観ていたら、すごく良くできた作品だなと思うようになりました。
そもそも、ポニョが創られたのは、宮さんが「祖父」の年齢になったことで、孫世代にあたる幼児が彼の視界に入ってきたからでしょう。ラピュタもののけ姫とは、対象にしている「子供」の年齢がぜんぜん違うのですよね。

公開当時、リサは「嵐の夜に子供をひとり置いていくとは何事だ」といった批判も受けていたんだそうです。けれどそれは、「おしいれのぼうけん」で「子供をおしいれに入れるとは何事だ」と批判するのと同じくらい意味がないと思います。子供を押し入れに入れる大人がいなかったら、あの絵本の冒険は始まりません。絵本の世界には、親をひとりでお迎えに行ったり、おつかいに行ったり、おばあちゃん家まで歩いたり、子供たちが小さくて大きな冒険をする作品がたくさんあります。せめて物語の中くらい、のびのび自由に冒険させてあげたいと思います。


「僕は大人の小説には向いていない人間だと決めたんです。児童書の方がずっと気質に合うんです。何が違うかといったら、児童書は、やりなおしがきくという話ですよ。まあ、やり直しがきかない話をロバート・ウェストールは結構書いていますけど。でも、やっぱり基本的に彼は、この世は生きるにあたいする何かがあるというふうに書いていますよね。」

岩波少年文庫の50冊 宮崎駿インタビューより)

最後になりますが、宮さんは、ポニョのドキュメンタリーの中で、「これ(ポニョがやってくる時に、巻き起こる嵐)を、『大災害』にはしたくない」と、繰り返し言っていました。最初は、「人類にお灸を据えたい」くらいの気持で創り始めた映画だった、と言っていましたが、制作過程でどんどん違った感じになっていきます。あの映画では人が一切死なないし、海に沈んでしまった町も元通りになります。荒れた海から、街の人を守ろうとする(リサの車を止めようとする)男の人たちまで、ちゃんと救っているんですよ…!ポニョのテーマは、「海が怒っている」とか、そういう単純なことでは全然ないんだよなあと、私は思っています。


ポニョはこうして生まれた。 ~宮崎駿の思考過程~ [DVD]

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★参考、おまけ

「少女のような母親」については、こちらの記事もぜひどうぞ!彼女にはいろいろとヒントをもらってこの記事を書きました。
日曜日はマルシェでボンボン - ものがたりとごはん

過去に私は、はじめてポニョを観た直後にも記事を書いていたようです
ポニョで崖っぷち少子化対策 - kobeniの日記

上記の記事でも引用させて頂いている、堀越英美さんの記事。「働くママさん、ポニョに癒される」
Webマガジン幻冬舎

ロバート・ウェストールについてはこちらを参考に
2012-04-04 - 水曜日のワタシとアナタ

こどもは手段が目的

先日、うちの夫がTwitterでこんなことを言っていた。

そうか。こどもはなんでも楽しむっていうけれど、ぼくらおとなにとっての「手段(目的地へ行くために走る)(紙を切るためにはさみを使う、とか)」を娯楽に変えているのか…。ぼくはつい「目的」のための「手段」として行動の主従関係を考えてしまうけれども、それは彼らには通じない考え方だよなあ。

おっ、夫のくせにたまには面白いこと言うなと思ったわけですが、確かに最近、うちの息子は「はさみで切るという手段」にハマっています。色とりどりの折り紙を切り刻み、ソファーの上には折り紙の断片が山のように…

基本的に大人がやる行為には「目的」があって、そのために手段がある。はさみを使うのは、切って何かをつくるのが「目的」だし、お風呂でお湯を汲むのは、体を流すのが「目的」。けれど子供がやることの多くは、大人にとっての手段自体が目的だったりする。ただ、はさみで紙を切る。楽しいから。お風呂で、延々とお湯を汲んでは流し、流しては汲む。楽しいから。目的はないので、どこにも行き着かず、終わりもない。大人はそれらを「遊び」と読んでいるらしい。

子供にとっては、この世のあらゆる体験が初めてのことに近く、新鮮に感じられるはずだ。だから、はさみを動かしたら紙が切れた!積み木を縦に積み上げられた!自転車に自分ひとりで乗れた!そういう一つひとつの「手段」を習得した時、その喜びのあまり、手段自体を繰り返し楽しんでしまうのだと思う。

彼らがひたすらに泥を掘っていたり、マジックで○を何十個も書いていたり、テープを何かにぐるぐるぐるぐる巻いたりするのを見ると、(本当はそれって、ものすごく興奮する行為なのかも…!)という気さえしてくる。ふだん私は、なんとなく「キリトリ線に沿って」と命令の通りに紙を切り満足しているけれど、実は紙を切るってものすごくハァハァする行為なんじゃないか?そういう原体験を、自分も幼少期にしたはずだが忘れているだけじゃないのか?なんて思う。そういえば私は小さい頃、絵本にカバーをつける行為にハァハァしていたことがあり(本屋さんがつけるプロフェッショナルなカバー構造に強烈な憧れを抱いていた)手のひらサイズのピーターラビット全集に、ひたすら折り紙で作ったオリジナルカバーをつけ、表紙にタイトルを書き添えていた。汚れを防ぎたかったわけではない。カバーをつけること自体が楽しかった。そういう体験って、意外と皆さんにもあるんじゃないだろうか。


大人は、子供たちのやることを「遊び」と呼び、「仕事」と区別している。仕事とは一般的に、利益創出を「目的」としたビジネス全般をさすわけで、仕事におけるすべての「手段」は「お金を儲けること」という目的から基本的には逃れられない。(企業理念が目的で、利益は手段です。と、偉い人には言われてしまいそうだが、それにしては利益の存在感デカすぎじゃないのかと思いますねえ、ええ。)大人の世界で目的を忘れ手段に没頭しようものなら、即座に嘲笑の対象になる。「手段が目的化しちゃってんじゃないの?」とか、「仕事のための仕事じゃん」なんて言われたりする。それは簡単に言えば「お金を稼ぐという目的に対して、効率が悪い、無駄が多い」という意味である…ことが多い気がするんだけど、どうだろう。

けれど、大人のほとんどが、はさみで切ること自体の喜びを忘れてしまっている中で、今でも「はさみで紙切るのマジ楽しい。鼻血出そう」という人がいたら、それはけっこうすごい。たとえば画家とか詩人とか、そういう類いの人は、常に生まれたてのフレッシュな気分で世界を見る必要があるから、はさみで切ることひとつも楽しめるかもしれない。
…という風に考えると、手段が目的化したexcelファイルとか、手段が目的化したシステムとかにもあまり腹が立たないかもしれない。それは「何人日かはともかく開発すんのマジ楽しい」という気持で作られたのかもしれず、「そんなに楽しかったなら…」と、なんとなく納得できる。会議が長引くとなぜかイキイキしだす人も、会議のあの昂揚した雰囲気が好き!会議室という密閉空間にいつまでも閉じ込められたい!という人かもしれず、それはそれで現代アートっぽいので「新しいかも」という気持になれるのではないか。なれないか。


冗談はさておき(冗談だったのか)、目的性の薄いシンプルな行為への原始的な喜び、というのはバカにできない気はするし、大人になっても楽しめるのはなかなか貴重なことだ。鉄道を見るのが好きとか夜中のドライブが好きとか、マスキングテープ貼るのが好きとか山道の散歩が好きとか、意外とみんなやっている気もしますね。「いくつになっても、寝るのが好き」という人なんかも、良いですよねえ。
ちょっと話は逸れるけど、昔ネイリストさんに「仕事の中で一番楽しいのはなんですか?」と質問したことがある。やっぱりカラー(爪に色を塗る)とか、アート(絵を描く)なんじゃないかな、と想像していたんだけど、答えは「甘皮を取るところですね」だった。そこか…
私の「文章を書いては直し、直しては書くのが好き」というのもそれに近いかもしれない。いちおう目的というか、終着点があるような気もするのだけど、整えていく作業が好きというのは、甘皮取りと同じくらいシンプルというか地味?だ。
しかし残念ながら、「目的性が薄い行為」は、お金にはつながりくいように思う。(そう考えるとお金って、目的のあるところに発生するんですね)単純作業、なんて呼ばれちゃったりしてね。もしこの世に、お金という概念がなかったら、私は「家にある本にひたすらカバーをつける」日々を送っているかもしれないなあ。あるいは文章を一日中推敲している。たのしー!推敲たのしー!あっ、陽が暮れた!とか言いつつ。




…それにしても、貴重な童心を持った「手段好き」の大人たちが、大人であるが故に「手段が目的化しちゃってるよ(藁」などどバカにされるのは、あまりに可哀想だと思いませんか。
なのでここらでひとつ、大人たちが心ゆくまで手段を楽しむ夢の国を作ってはどうか。手段が目的ランド。略してSML。
そこでは、目的がなく生産性が微妙な行為ほど歓迎される。すべてのスポーツは、打ちっぱなし投げっぱなしの蹴りっぱなし。ルールはないし勝負もない。ずっとリフティングするもよし、イナバウアーばっかりやるもよし。
ランドの周囲はぐるっと散歩できるようになっており、特にスタートもゴールもない。歩いたり走ったり、それ自体を楽しめるよう、美しい木々や花々が植えられている。
PCなどノマドっぽいことができるスペースはあるけれど、「〆切」は持ち込み禁止。excelやPPTをいじるのが好きな人は、ひたすらいじってもよい。ただし納品はできない。
料理を作れるコーナーもあって、ずっと唐揚げに粉をつけていたい人と、唐揚げを揚げていたい人と、唐揚げを食べていたい人が絶妙な連携プレーを見せていたりする。
何をしたらいいか分からない大人のために、ランド内には「手段メンター」としてたくさんの猫がいる。彼らを見習って一日を過ごす。

周囲には、「手段が目的リゾート(SMR)」があって宿泊もできる。エレベーターを何度昇降するのも自由。別に自分の部屋に帰らず他の階で降りてもよい。「はっ、ランドに行くはずだったのに昼寝しちゃった!」みたいな人は、むしろ従業員から「おめでとう」と拍手されたりする。
もちろん、SMLにもSMRにも時計がない。効率を重視した日常を忘れられる、魔法の国だから。あれ?どっかで聞いたような話だな。



そもそも、人生の目的って何なんでしょうね。
人生って手段なのかなあ。
とか書いて、めいっぱいお茶を濁しつつ、終わり。うちの猫にも聞いてみます。







※全体的に、小沢健二のドゥワッチャライク風の文章になりました。パクったんじゃないよ!影響を受けたんだってば!