kobeniの日記

仕事・育児・目に見えない大切なものなどについて考えています。

「いるかもしれない」の季節

長男5歳が、保育園のみんなと遠くまでお散歩をした日の夕暮。お迎えに行くと保育士さんに、「やまんばをとっても怖がっていたので、長男くん、しばらくやまんばの話をするかもしれません」と言われた。詳しく聞くとこんな感じ。お散歩の途中に大きな木があって、そこに謎の物体(たぶん靴下とかビニールとか。大人が見たら「ゴミ?」と思うようなもの)がひっかかっていた。あれはなんだろうね、誰のしわざかな、とみんなで話すうちに、子どものひとりが「もしかして、やまんばかも!」と言い出して、すごく盛り上がってしまった。帰り道、行きとは違う道順で戻る途中に我が家が見えたため「あれ…?ここ、ぼくん家に近い」と気付いた長男は、もしや我が家までやまんばが来てしまうのでは!というところまで妄想してしまったようだ。園から帰宅しつつその話を振ると、「わー!やまんばの話はしたくないしたくない」と耳をふさいでいる。ああ彼はいま、やまんばが「いるかもしれない」世界に住んでいるんだなあ、と思った。
そんな彼を見ていて、私が小学生の頃に大流行した「はれときどきぶた」のことを思い出し、買って読んであげた。日記帳にウソの日記を書くと、それが翌日ほんとうになってしまう、という話。なんて単純な、と思うだろう。でも長男はすごく夢中になって、図書館で続編も借りて全部読んだ(私が読まされた)あげく、自分で日記まで書き始めた。「○○くん(近所の友達)が、ぶたになってしまいました」と書いて、「…ほんとうにぶたになっちゃったらどうしよう?」とか言っている。

子どもたちは、空想と現実が入り混じった世界に住んでいる。そのことで困ることなど、なにもない。といった趣旨のことを、宮さん(宮崎駿)が言っていた。私もそうだと思う。彼らがそんな世界で暮らせる時間は非常に短い。いちどきりしか訪れず、すぐに過ぎ去ってしまう、そういう季節。





あまり読書家ではない私だが、小学校の一時期だけは、確かに読書に夢中になっていた。絵本を卒業し、字だけの本が読めるようになった頃はとても楽しく、図書室で児童書を借りていろいろ読んでいた。ページを繰っても字しかない、挿絵も大して入ってない。だからこそ、作者の情景描写をたよりに、風景や出来事を必死に頭の中に思い浮かべる。「よし、次はこれを読もう」と決めて、貸し出しカードを書き、ランドセルに入れて持って帰る時、とてもワクワクしたのを覚えている。中でも特に印象に残っているのは、ミヒャエル・エンデの「ジム・ボタンの機関車大旅行」というシリーズ。機関車に乗って男の子と機関士が、お姫さまを救うとか、海賊とたたかう旅に出るというファンタジーである。あの頃は特に、この世界ではない別の場所が舞台とか、あるいは主人公がどこか遠くへ旅に出る、というような冒険譚が好きだった。(この文章を書くにあたって、ひさしぶりにジム・ボタンシリーズについて調べたら、ほとんど内容を忘れてしまっていて、ちょっとショックだったけれど……)
大人になってからも、夢中になって読書をするということはもちろん、ある。けれどあの頃ほど、ページをめくる度にドキドキハラハラしたり、世界観に没頭したり頭の中で懸命に思い浮かべたり…ということが、できなくなっていることに気づいた。子どもたちのおかげで、この歳になって初めて出会った魅力的な児童書もいくつかあるのに、今イチ読む気になれない。それはきっと、私の「いるかもしれない」の季節が、とうの昔に過ぎ去ってしまったせいだろう。今の私は、やまんばも、助けを求めるお姫様も「いない」と思っている。海の向こうにあるふしぎな世界を、「これはフィクションだ」と思いながら読むのと、「いつか行けるかもしれない」と思いながら読むのには、悲しいかな天と地ほどの差があるのだ。

 

 

 

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「いるかもしれない」の季節を、想像力を駆使して大いに楽しむことについて、「大人になってなんらか役に立つ」という見方もあるだろう。それはおそらく正しい。けれど仮に、「特になんの役にも立たなかった」としても、別にいいんじゃないかな、と思う。もちろん子どもはいつか大人になるんだけど、彼らは大人になる「ために」生きてるわけじゃない。彼らはかけがえのない「今」を生きているし、これからも生きていく。その中でいちどきりの季節を過ごしているだけだ。それをただ存分に満喫してほしいなと思う。ぶたが降る、ドラゴンが舞い降りる、雲の上まで電車で行ける、ポケットをたたくとビスケットがふたつになる、かもしれない。ちいさな頭の中には、大人のそれよりも、ずっとずっと広い世界が広がっている。

子育てをきっかけに、私も確かに通り過ぎたあの頃の思い出に浸ることが増えた。それはとても幸せな時間だ。我が家の長男も大人になって、やまんばがいるかもしれない「今」を思い出し、懐かしむことがあるのだろうか。



ちなみに後日、長男に「やまんばってさー、けっきょく何なの?」と聞くと、「好物は…こども。もう!その話したくないってば」と、言ってました。

 

 

 

 

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はれときどきぶた (あたらしい創作童話 13)

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ジム・ボタンの機関車大旅行 (ジム・ボタンの冒険 (1))

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  • 作者: ミヒャエル・エンデ,ラインハルト・ミヒル,Michael Ende,上田真而子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1986/06/25
  • メディア: 単行本
  • 購入: 1人 クリック: 13回
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あるのに、見えない家事育児 〜「家事労働ハラスメント」を読みました〜


ワークライフバランス・カフェの活動で知り合った方に薦めて頂いて、「家事労働ハラスメント」という本を読みました。この本は、本来は癒しの営みであるはずの家事(育児、介護等)を、「単純労働」と咎めたり、あるいは「母親にしかできない神聖な仕事」などと極端に持ち上げることで、その実態を労務管理や社会政策において無いものとし、不当な分配がされた結果、生きづらさが生まれたり、社会にひずみが生じている…ということが書かれています。
「ひずみ」について書かれているだけあって、読み進めるのが辛い系の本ではありますが、とても勉強になりました。いくつか印象に残った&考えたことを、煩雑ではありますが共有したいと思います。引用部分は青の斜体で記します。
(仕事と育児の両立をめぐる問題について書きますので、そもそも共働き自体に関心がないとか、そういう選択自体に嫌悪感がある方、私はしんどい家事育児を一人で切り抜けてきたので他の人も必ずそうあるべき的な方などは、そっ閉じでお願いいたします←トピシュさん風)


■ 家事や育児や介護を「やりたくない」んじゃない、「偏ると辛い」んだ


この本の良いところはまず、家事育児介護などの、主に家庭内で行われる労働を、「本来は癒しの営みであったはず」という風に定義してくれているところです。たとえば「孤育て」とか「介護疲れによる虐待」とか、「産後クライシス」もそうかもしれません。昨今、家事育児介護労働の負担感の実態を表現する単語がいろいろ出てきていますよね。私は、隠されているよりは明るみに出てきた方がいいと思っているのですが、一方でこれらにまつわる話を聞いて、「えっ、家庭を持つってそんなに大変なの…」と、ひたすらどん引きしている若者もいるんじゃないか?と、ちょっと危惧してました。
家事育児介護って、それ自体が「ただただしんどい」ということじゃなくて、「特定の人に過度に偏るとしんどい」ということなんですよ。本来は家事労働って、誰しも生きるために必要な営みだし、喜びでもあると思うんです。けれどその実態が「正しく測られない」ことによって「適正に分配されない」と、喜びではなく苦痛になりうる。ということなんだと思います。
「単純労働(だから大した労力ではない)」と咎めるのも、「母親でなければできない神聖な仕事(だから母親以外の人が担うことは不可能)」と極端に持ち上げるのも、「正しく測らない」という点においては同じことですよね。この指摘は非常に目からうろこでしたし、皆さんに共有したいなと思った点でした。
以前から、仕事と育児の両立がしんどい、という話に対して「日本でもベビーシッターに頼めるようになるといいよねー」というような反応を見るにつけ、なんかちょっと違うんだよね…別に私は、やりたくないから誰かに丸投げしたいわけじゃないんだよ…とモヤモヤしていたので、この「偏よるとしんどいんだ」という指摘は、非常に理解の助けになりました(ベビーシッターに頼むこと自体をNOだと言っているわけではありませんので、あしからず)。


■  家事労働を「個人の努力」で見えなくしつづけることの限界

「女性活用」が、声高に叫ばれるようになりました。つまりは女性も家庭外で働いた方がいいと。では、これまで主に女性が担っていた家事労働を、誰がやるのか。そこで「男性の育児参加」という考え方は、ここ数年でかなり浸透してきたと思います。その現状についての下記のような指摘が、印象に残りました。


労働時間の短縮が進まず、保育や介護サービスの整備も遅れ続ける中で、女性の労働力を引き出すために残るリソースは、夫の育児参加だ。(略)だが、政策要求も活発だった1980年代から90年代の男性の育児時間要求とは異なり、現代の「イクメン」は、個人の甲斐性と能力頼みだ。(第四章 P.143)

たとえば、夫が「早く帰宅して、働く妻の負担を軽減したい」と、イクメンを目指そうとした時に、その方法論は、現状だと「自力で仕事のあり方を見直し、早く帰宅できるよう変える」とか「少しでもブラックでない企業へ転職する」とかで、言ってみれば「個人の努力」なのですよね。
妻としては、まず個人の努力に期待したい。それは分かる。理解ある企業の努力も、してもらえるのは喜ばしいことだと思う。でも、そもそもサービス残業の規制とか、労働者が働く時間をフレキシブルに選べる仕組みとか、休息時間(次の労働までの間を連続●時間空けなければならないという制度)とか、そういった「政策」をナシに全員イクメンになれ、早く帰宅して育児を担えというのは、実は無理があるのではないかと思いました。できる人や職場はできるけど、できない人や職場は永遠にできないんじゃないか。それでいいんだろうか…という。


契約社員や派遣社員という非正規のフルタイム労働者の増加からもわかるように、日本の正社員は、実はフルタイムで働けることが条件ではない。会社が必要なときに何時間でも働けるという高い拘束を受け入れる人たちが『正社員』だ。(第一章 P.33)


↑これもなんだか、知ってた…知ってたけどあらためて言われると「がーん」という衝撃がありますね。親になること、「イクメン」になることに、気持ちがついてこない人もいると思うし、そういう点の方が対処は分かりやすい。けど、気持ちはあっても帰れない人は辛いだろうなと最近、思います。

妻の側も、保育所はだんだん整いつつあるけれど、夫が不在がちで、祖父母にも頼れないという人はざらに居て(うちもそうだ)、そういう場合に家事育児負担はどこにも分担されない。妻が、仕事に加えて「個人の努力」でなんとかすることになっちゃう。(ルンバや食洗機に分担…っていう意見もありそうだけど、そいつらのボタンを押すのは誰!てことになるからね)
「個人の努力」で、家事育児を自分の手元から、なかったことにできる妻というのは、高い給与が保証された、責任のある立場につき、子育てを保育園+シッターあるいは祖父母、専業の夫などに一任できる、一部のワーキングマザーだけですよね。でも最近は、普通の妻、母親が、家計を担うために仕事に出たいと考えているんですよね…。政府も、普通の女性を活用したいんだと思うんですけどね。


働く裏側には、必ず、家事や育児、介護の労働がついてくる。そうした等身大の制度設計の重要性を直視し、労働時間設計、税制、少子化対策、「女性の活躍」促進策といったあらゆる政策の中に組み込んでいくことができるかどうか。私たちのこれからは、家事労働という、一件地味な営みをめぐる公正な分配政策、家事労働ハラスメントの乗り越えにかかっている。(終章 P.232)

この本の言いたいことは、これに尽きるのかなと思います。なんだか、仕事とプライベートを指す「オンとオフ」という言葉のおかしみを考えてしまいますね。ある意味、「オンとオフ」は「オフとオン」だろ、みたいな。


■ 他の国もいろいろ試行錯誤してる

「じゃあどうすればいいんだ!」という気持ちになってきますが、他の国はどうしたのか。そもそも「家事労働の再分配」は、1980年代からの産業構造の激変の中で、多くの国が直面してきた問題のようです。日本と同じように専業主婦大国だったが、パート正社員(日本のパートとは色々と概念が違う)というような形を普及させて質の良い短時間労働を整備し、男性の家庭時間を確保し、男女両方の完全雇用を目指したオランダとか。育児や介護の公的サービスを増やし、女性もフルタイムで働いて納税し、それをまた公的サービスに帰して循環させるという方法をとったスウェーデンとか。他国でこの「家事労働の再分配」がどのように行われたか、という例もかなり詳しく載っています。「家族ごとにベビーシッターやナニー」というような形をとっている国もありますが、それはそれで難しさがあるよ、ということも書かれています。


そんなオランダから学べることは、まず、外で働くか家庭内だけで働くかを問わず、家事労働を担う人々を横の関係で結ぶネットワークを強めることだ。家事の担い手とされてきた女性が意思決定の場にほとんど参加してない日本では、仕事と家庭を両立できる労働時間が必要な人々がばらばらに切り離され、自分たちに必要なものを意識することさえまれだからだ。(終章 P.228)


「夫がひとりで世帯収入を稼いで、妻が家事育児介護を一手に引き受ける、そういうモデルケースしか許されない世の中はもう生きづらい。それをなんとかしたい」という人や組織は、いろんな方面にあるような気がします。私みたいに両立に悩んでいる人もそうだし、シングルマザー/ファーザーもそうだし、ワーキングプアなどの貧困問題に取り組んでいる人もそうかな。でもみんなバラバラに活動しているので、同じ方向に向かっていきたいのにまとまりがない、みたいなことはあるのかなと思いました。

 


*


時にはこういう本を読んで「あれ!なんか今すごい生きづらいんだけど、なにこれ!やっぱこれ社会問題だよね!」というような、マクロ視点とでも言えるものを持つことは大事かなと思います。以前にブログに書いた「迷走する両立支援」もそうだったのですが、著者が「(あなたの生きづらさは)あなたのせいじゃない。なぜなら…」と言ってくれる本というのは、読み手は救われた気持ちになりますし、今すぐにどうこうできなくても、なぜ大変なのか?という現状の理解にはなります。
そして、つらつらと厳しい現実を書いてきましたが、なんとなく「いずれ良いバランスに落ち着くだろう」と思いました。この本のおかげで、ここからどういう過程を経て何が変われば、両立がうまくまわるようになるのか、なんとな〜く、イメージがついたからです。今は過渡期なので、渦中にいる人はしんどいかもしれないけど、だからこそ、一人ひとりの考えてることや言動に、けっこう影響力がある……意味がある!!時かなとも思いました。力強く言ってみた。

 

家事労働ハラスメント――生きづらさの根にあるもの (岩波新書)

家事労働ハラスメント――生きづらさの根にあるもの (岩波新書)

 

 



 

2月に、ワークライフバランス・カフェの交流会(というか基本はただのオフ会)があります。もし興味のある方がいたら、ぜひいらしてください。お疲れ気味のイクメンの方もぜひ、どうぞ。この本の感想なども、いろんな立場の方々と意見交換してみたいなと思います。

ワークライフバランス・カフェ「リアルcafe」〜参加者のみなさん・スタッフ交流会〜 : ATND







 

Evernoteで友達と週間献立を共有しているよ

 前々回のエントリで、「料理がとても苦手だったのだけど、最近すこし頑張り始めたよ」ということを書きました。私がいちばん苦手なのは、つくる過程より「毎日の献立を考える」こと。そこで「友達とEvernoteで、きょうの献立を共有する」というのを始めました。8月末にあった久谷女子のイベントでも、この話をチラッとしたら、「へー」という反応を頂いたので、現代のweb女子らしい取組みかも?とか思いつつ、書いてみますね。


■  具体的に何してるのか一言で

Evernoteの「ノート共有機能」を使って、それぞれが立てた夕食の週間献立を、Twitterで知り合った友達と共有しています。
Evernoteとは→Evernoteについて | Evernote




■  はじめたきっかけ

今年の2月に、ワークライフバランス・カフェで「育児家事の時短ワザ・お役立ちツール」というテーマが実施されました。ワークライフバランス・カフェは、土曜日(不定期)の夜22時から、主に仕事と育児の両立に関心がある人たちが、Twitterのハッシュタグ#wlb_cafe上で知恵を出し合うというものです。私はスタッフとして、2010年ごろから関わっています。
その頃、ちょうどEvernoteに毎週の献立を記録し始めたばかりだったので、食事の時短ワザとしてそのことをツイートしました。そして献立が思いつかなくて困ってる、誰かの献立も見られたら嬉しいのに、というようなことを書いたと思います。するとTwitterでよく会話していた @asaco_ちゃんが、「同じようにEvernoteで献立をつけているから、共有してもいいよー!」と言ってくれました。で、その場ですぐEvernoteの「ノート共有機能」(全ての記録ではなく、許可した一部のページだけを見せることができる、というような機能です)を使い、お互いの週間献立共有をスタートしたのでした。


■  やり方もうちょっと詳しく

Evernoteでは「ノートブック」と「ノート」が共有できます。その名のとおり、「ノートブック」は複数のノートをまとめたもの、「ノート」は個々のページみたいなものです。
私たちはそれぞれ、一週間の献立を「ノート」に毎週記入しています。基本的にはそれを見せ合って、自分が献立を立てる時の参考にします。
Evernoteノート共有の方法→Evernoteでコラボレーションや情報公開―ノートブックの共有・公開 | Evernote日本語版ブログ



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これは私のノート一覧。赤く丸をしてある「参加中のノートブック」をクリックすると、共有しているasacoちゃんのノートを見ることができる

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これはasacoちゃんのノート一覧。彼女のはテンプレもあって、そこに週次で献立を書いてる


週間献立以外にも、雑誌やwebで見つけたレシピの共有とか、お互いの家庭の鉄板レシピ集とか、単なる「最近どう?」的な交換日記などのノートも。それらがまとまったノートブック全体を共有しています。
(そもそも何故Evernoteに献立を記しているのか。というと、買い出しの時にiphoneからアプリでチェックできるとか、思いついた時に電車の中でも書けるなど、どこにいても・どこからでもデータにアクセスできるため、でしょうか)

 


■ やってみて良かったこと

・ 週間献立の習慣づけができた&宅配の注文がラクに

私もasacoちゃんも、宅配で一週間分(実際には土日に買い出ししている分もあるので、6日間全部ではありませんが)の食材を購入しているのですが、一般的に食材宅配は、週次で配達が来るのですね。これまで私は献立をあまり立てずに、なんとなく注文していたのですが、食材を余らせてしまったり、来た食材で何をつくったらいいか分からなくなったり、結局マンネリになったり、していました。共有することで強制的に、事前に献立を立てる習慣がついたのが、まず良かったです。もちろん、前週の献立を流用する週もあります。というか、毎回違った献立を立てるのではなく、週単位で献立の流用もラクにできるように立てている、とも言えますね。(asacoちゃんは、Evernoteで献立を記入しはじめて一年が経つらしく、昨年の同じ季節の献立を流用したりしてるみたいです)
宅配の注文日までに献立を立てるのですが、始めて半年くらい経った今、考えて注文する時間がどんどん短くなってきました。以前はこの、食材を注文する時間がすごく苦痛だったので、短縮されるのは良いことです。あまった時間を、おやつの発注だけじっくりする、など楽しい時間に変えられますw

・ 料理の腕が上がった

そもそも私は料理が苦手で、asacoちゃんに献立を見せるのすら恥ずかしい!という感じだったのですが、それでも「ラクになるんだったら背に腹はかえられねえ…」と思って始めたのです。asacoちゃんは料理が好きな人なので、いろんなレシピを知っていて、料理や片づけのコツなどもこっそり教えてもらったりしています。
やっぱり「(献立を)人に見られるかもしれない」となると、それなりに食べられるものをw提供しようという気持ちにもなりますし、色々モチベーションUPにつながりました。とはいえ私はいま育休中なので、なんとか続けて来られたのかもしれません。続けることと記録することで、得意料理もちょっとずつ増えてきたし、作ってはみたが子供が食べないレシピが消去されるなどして、我が家に最適化された献立にどんどん近づいている気がします。

・ 交換日記が楽しい

私とasacoちゃんは、まだ一度もリアルで会ったことがないのですが、料理とは特に関係のない話も交換日記(ノート)に書いていて、これが古くて新しい感じというか、すごく楽しいです。お互いの近況や、最近気になるもの、思ったことなどを、上に書き足す感じで記入し合うだけなんですけどね…。Evernoteアプリは、更新するとアゲ、って上に表示してくれるので、返事書いてくれたんだなーと分かるのです。
お互いの献立をチラ見しながら、そこにメモされた内容から家庭の様子を知ることができて、その上で交換日記をしているので、なんだかどんどん仲良くなっている気がしますw距離的にかなり離れたところに住んでいるので、簡単に会えないのですが、そのうち会いに行きたいなーと思っています。 

 



■  はじめる時のポイント

・ 家族構成・ライフスタイルや食材調達の方法などが似ている人と始める

たぶんこれが一番のポイントです。私とasacoちゃんは、子供(乳幼児二人)がいる、働いているため帰宅してから調理にかけられる時間が短い、というところが同じでした。なので食卓の品数とか、調理時間は約30分とか、子供でも食べられる味つけとか、そのあたりの前提が同じで参考にしやすいのです。

料理にすごく凝りたい人同士で始めるのも楽しそうだし、逆に近所に住む人と、スーパーの特売日をふまえて超節約献立を共有したりなんかも、面白そうです。夫と交代で立てて共有してみるとか、も良いですね。

・ 見せても恥ずかしくない相手と共有する

「我が家の献立を人様に見せるなんてとてもとても」と言っていると、このプロジェクトは始められません!また、自分用のメモでもあるので、自分や家族のことを書いても問題のない相手と始めないと、やけに気を遣う必要が出てきちゃいます。まあまあ親しい人、個人情報を共有しても良い人とやるのが吉です。

・ がんばりすぎない

「毎週キッチリ立てないと!」とか思っていると、疲れちゃって続きません。そもそも、献立を記録・マネする=流用や引用し、使い回しラクをする、という理由もあるのだから、必死にならないようにしたいところです。


 

 

いかがでしょうか〜。楽しいので皆さんもぜひやってみてください。久谷女子のイベントでこの話をした時には、「たとえば、東京都では今夜みんなこの献立でつくっている、みたいなことが起きたら面白いですね。同時多発ハンバーグとか」というような会話も出てました。そこまでは難しいかもしれないけれど、もっとたくさんの人たちと献立を共有したらどうなるのかなー、とは思いますね。既に近しいサービスはあるのかもしれませんが。
先日、「ITまな板(プロトタイプ)」の記事がありましたが、日々の料理のフィールドはまだまだITが活躍できる余地があると思います!私は、この週刊献立ノートにアクセスできるまな板がほしいです。IT業界の皆さん、がんばってくださいね〜。



蜷川実花さん責任編集の「働くママ」本、セキララで良かったので紹介するよ

前回、オンライン献立共有について書くと言っておきながら、ちょっと紹介したい本を見つけたのでサラリとUPします。いま発売中だから、早く紹介しないと本屋さんから撤収されちゃうかなと思って。ステマじゃありません。急いでいるのでドライブ感ある感じで(とちゅう何度も0歳児に執筆中断されながらですが)書きます。

 

MAMA MARIA(ママ・マリア) (光文社女性ブックス VOL. 145)

MAMA MARIA(ママ・マリア) (光文社女性ブックス VOL. 145)

 

 


表紙にでっかく「働くママへ!」って書いてあったので、本屋さんで思わず手に取りました。「ママ・マリア(MAMA MARIA)」っていうMOOKです。蜷川実花さんが編集長、ファッションフォトなど全部撮影だそうです。
最初見た時は、ママ向けグラビアや子連れスポットがたくさん載っていて、ママであることをめいっぱい楽しむ!みたいな本なのかと思いました。けれどパラパラめくったら、佐田真由美さんがスタイリッシュにポーズを撮っている写真の上に

 

「産休中は外の世界と遮断されちゃった。いいね、みんな働いてて…かなり卑屈になっていたかも」

 

って書いてあった。えっ。あんまり見ないよな、こんな女性誌っぽいモードな写真の上に「産後は卑屈に」っていう見出し…と思ったんですよね。なんだろうこの本?それで前書きを見ると、蜷川さんからのメッセージとして

 

「はっきり言って、どんなキラキラして見える人も悩んでます、素敵ママ代表のあの人もこの人もみんな悩んでます、みんなボロボロです、もちろん私も。このことをキチンと伝えたくて」

 


と書いてありました。
購入して読み進めていくうちに「これって、ふだん女性誌でキラキラしている有名人ママが、大変なことや辛いことまで含めてセキララに語る、っていうコンセプトの本なのか!」と分かってきました。だからMOOKの体裁ではあるけれど、基本的には「インタビュー集」なのですね。モデルや女優、デザイナーやクリエイター等としてキラキラと働くママの「ボロボロ部分」、白鳥が湖の下で足掻いてる、そのバタバタした足の部分まで語ろう!というものなんだなと。


なんとなく本の雰囲気がわかるように、いくつかインタビューから抜粋しますね。

 


益若つばさ
「結婚当時は、家をきれいに片付けられないと自己嫌悪に陥ったり、主人に申し訳なく思って、夜中に歯ブラシでめっちゃ掃除しはじめたり。でもいまは『疲れちゃったから、明日でいっか』ってだいぶ思えるようになった」


東村アキコ
「子育ては先が読めないしこっちの思う通りにはいかないわけですから、もうあの頃はホントに辛かった 思い出したくない 人生で一番辛かった」


吉川ひなの
「子供にご飯をあげたあとの床とか、地獄のようにぐちゃぐちゃ」


土屋アンナ
「再婚してから、旦那が家で子供を見てくれるぶん食事は作る。男だけだと食べたいラーメンやカレーのみで終わっちゃうでしょ。そこにサラダも添えたいっていう部分はこっちがケアしないとね」


蜷川実花
「私も離婚したらすごく楽になった。『私が働かないと生活できない』という明確な理由ができたから。夫婦で働いてると、『子供が泣いてるのに、なんで働かなきゃいけないんだろう』って、自分を責めてしまいそう」


川上未映子
「その人の根性とかバイタリティの問題ではなく、一日24時間しかないわけだから、絶対に(両立は)無理。本当の意味での『両立』はありえない」
「子供を持たなかった人生もあるっていうことは忘れちゃいけないって思う」
「健診とかに行くと、ちょっと小さいんじゃないかとか、母乳が足りてなかったのかなとかって気になるんです。(略)そんな自分にがっかりですよ」


小林加奈(Velnicaデザイナー)
「『完母』っていう母乳神話にすごく苦しめられた」
LiLy
「初めて(子供を)保育園に預けたとき、先生にね、うんちの柔らかさを聞かれて、その瞬間、泣きそうになったの。それまで夫も家族も一緒にいたけど、それでも息子のうんちの柔らかさについて私に聞いてくれた人はひとりもいなかった」

 

大変だよ悩んでるよ!というものの他にも、「人それぞれ、いろいろなスタイルで両立やっていこうよ」みたいなことが感じられるエピソードもあり。


田中杏子(NumeroTokyo編集長)
「うちは別居婚スタイルで、彼は同じ敷地の別棟で生活しているんです」


小島慶子
「私と夫は完全に入れ替え可能な夫婦。お互い家事はひと通りできるので、分担というより、2人で回している感じです。(略)役割が固定化すると我慢大会になるので、臨機応変にすれば家の中が平和です。」


植田みずき(ENFOLDクリエイティブディレクター)
「(ハウスキーパーを頼むのには)確かに若干の罪悪感はあります。でも仕事から帰ってきて家が綺麗になっていると嬉しいし、それができなくてイライラするほうが家族にとってもマイナスだから」


杉谷恵美(シンシア・ガーデン代表)
「株主総会の日に子供が病気になっちゃって、会議室にベビーベッドを置いて株主総会をしたんですよ」

 

■ イヤイヤ期の前ではどんなママも怖いくらい平等なんだな

出てくるママたちは基本的に乳児〜幼児を育てているところのようで、大変さもひとしお。ああ、今まさに私と同じようなことで悩んでるんだ!って思うエピソードがたくさんありました。
考えてみれば当たり前のことで、いくら彼女たちがキラキラした職業に就いているといっても、あくまで我々は同じ国に住んで、同じくらいの年齢の子供に向き合ってるんですよね。夜泣きがない、イヤイヤ期がない子供などいないのだし、それぞれの母と子の関係は代替が効かない、唯一無二であることも同じ。もちろん「有名人なんだから、お金で解決できるのでは?」と思うところもあります。それはそうなんだけど、じゃあ子育ての、何をどこまでお金で解決するのか?できるのか。少なくとも「母乳が出ない」という悩みは、そう簡単にお金では解決できないよね、とか。それにいくらお金があっても、「自分でやるのか他人に任せるのか」の線引きは、切実についてまわると思います。

ハイパーワーキングマザー伝説!とでも言えるような記事を雑誌で目にした時に、どっと押し寄せる疲れは、「私は同じ働くママなのに、それ特有の悩みや辛さをこの(雑誌に出ている)人と共有できてない。せっかくメディアに出ているのに、私の気持ちを代弁してはくれないんだな」という寂しさやガッカリ感が原因だと思います。そういう記事に比べると、この本は一見キラキラしているママたちが、私と同じように、周囲や自分自身の子育て・ジェンダー観(そこから来る無理解)に振り回されて葛藤したり、子供ができたことで、仕事のスタイルについても変化を余儀なくされ、試行錯誤しているらしい様子が伝わってきます。「夜明け前に起床し2時間PCに向かい子供たちは義父母に預けそのままNYへ」みたいなハイパーな部分も…無い…わけではない。湖の下での足の掻きっぷりはハンパないと思う。それでも、むやみに涼しい顔されるよりはいいよな!と思いました。

■「イクメン」については全然出てこないが蜷川父がぜんぶ持っていく

読み終わって思ったことですが、全体的に夫の影が薄い。超薄い。「離婚してスッキリした」という人が何人も出てくるw 確かに彼女たち自身がすごく華やかな存在なので、夫もそれ同等に有名人だったりして、だからこそ多忙を極めていて、子育てできないという可能性は高い。けれどこれだけ、妻の方が仕事で個としてキラキラ輝きまくってんだから、夫が全面的に子育てして支えてる夫婦が居たっていいのに。と思ったんですよね。そしたら本の真ん中あたりで出てくる蜷川父が、イクメン枠を全部持っていってくれた。

実花さんは、まだ蜷川幸雄さんが売れる前に生まれた子ということで、奥さんが女優として働いて幸雄さんが「ハウスハズバンドとして」彼女を育てたのだそうです。イクメンの走りですよね。

「家事というのは本当に大変です。(略)だから、世の中のお父さんたちに言いたいです。生活の中でちゃんと役に立ってないとダメだぞと。(略)やりっぱなし、食べっぱなしはダメだぞと。後片付けをすることが大事」
「(女は)精神的にも経済的にも自立しろ。ダメな男は捨てればいい」
「格好いい女というのは、テキパキした女のことです。そして、受け身ではないということです」

カッコE!惚れる!そんな蜷川父ですが、本誌にはお孫さんとのほのぼの2ショットもあり、ほっこりさせられました。

 

 

…ということで、本の趣旨がしっかりしているせいか、女性誌によくある感じのインタビューではなく、妙に突っ込んだ内容になっていて面白かったです。母乳神話、育児ノイローゼ、産後うつなどの単語もよく出てきます。宗美玄さんの産後アドバイスも。もちろんインタビューだけじゃなく、オサレ靴や授乳服なども載ってました。個人的には「サラダを添える土屋アンナさん」が良かった。私も頑張って添えていきたい。よかったら、皆さんも読んでみてください。普段なかなか見られない、白鳥ママたちの水面下が見られますよ!というかこのレビュー、サラリとって書いておいて長かったね…!



※参考 「個としての輝き」

Web女子に「個としての輝き」を!久谷女子が面白い(Excite Bit コネタ) - エキサイトニュース







 

キッチン・コックピットから

 
 
皆さんは料理が好きですか?
 
私はもともと料理が苦手で、20代の頃は外食ばかりしていた。子供が生まれてから、さすがに外食ばかりではまずかろう、食費もバカにならないしと、ようやく重い腰をあげて、自炊に向き合うことにした。とはいえあまり気持ちが前向きでないので、かなりいきあたりばったりで料理をする日々。献立を考えるのもおっくうだし、レシピを覚えて「自分のものにしよう」という気持ちもないため、いつまでも腕が上がらない。決まった献立で食材を送ってくれる食材宅配「ヨシケイ」を使っていたこともある。けれどヨシケイは、基本の夕食献立が「三品ワンセット」だ。仕事を終えて保育園へ息子を迎えに行き、帰宅してから調理にかけられる時間はせいぜい30分。そんなタイムショック状態の我が家にヨシケイは、たとえば「スカイツリー完成記念!」と称し、ハンバーグと目玉焼きをツリー状にしたエクストリームレシピを提案してきたりする。「ヨ、ヨシケイ様…平日からタワーはパワー的に厳しいです、どうかお許しを……!」という日が続き、私はついにヨシケイ様もギブアップしてしまったのだった。
 
しかし先日二人目が産まれて、しかも子供達二人とも男児と来ている。彼らが食べ盛りになったらどうするの、私。お惣菜の唐揚げとコロッケを与えておくだけでは済まされないでしょう!ヨシケイギブアップ以来なんとなく気持ちが遠のいていた料理だが、さすがに一念発起し、おら育休中になんとかするべ!と、料理修行に力を入れ始めた。
 
料理修行といっても、一週間分の献立をまとめて立てて、それに沿って食材を宅配(今は生協を使っています)で購入し、一週間ずつまわす。そしてそれぞれのレシピを、ボーっとして作ることによって一期一会に、ではなくなるべく頭に入れて自分のものにして、調理に慣れる。ぐらいのことなのです。アータ、そんなこともやってなかったの!と怒られそうですが……すいません。けれどこういう工夫を始めたら、今まで気づかなかった料理の奥深さが、ちょっとずつ見えてくるのでおもしろい。
まず、「ほとんどの和食って、しょうゆとみりんと酒と砂糖で味つけされてんのな」ってこと。和食レシピは何を作るにしてもだいたい、これら調味料の加減で味つけが決まっている。すごい。逆に言うと、これらで適当に味つけすれば、だいたいの食材は美味しく頂けるのかもしれない。
それから外食で美味しいものを食べた時、「あー美味しかった」で終わらなくなった。「あー美味しかった。…で、これ、どうやって作るの?」となる。もしかしたら自宅で再現できるかも!という観点が生まれたのです。店員さんに聞くのは難しいので、レシピは想像になっちゃうけど、実際に作ってみるのも楽しい。「お店のあの味を再現」なんていう記事が、人気を博すのも分かります。
 
料理のやりくりに凝り出すと、食材をキッチリ使い切れた時、またそれによって冷蔵庫の野菜室が空っぽになった時などに、えも言われぬ達成感がある。勝った……あの時に特売だからといってなすを大量に買わなかったオレ、勝ち組……!というような気持ちになれます。別に食材が余ったら、それでもう一品作ったりすればいいんだけど、私はまだ修行が足りずそこまでの腕がない。漫画「アラサーちゃん」に、「得意料理は?」と男性に聞かれた時の最新の答え方(「肉じゃが」の次世代バージョン)として「冷蔵庫の中にあるものでパパッと作ったものかな」とありました。とても納得。私もパパッと、を目指して精進したい。
 
そして当然の帰結とも言えるが、ついに料理をする「場所」にもこだわりだしてしまった。つまりキッチン。主婦の聖地キッチン。手の届く場所に適切な調味料を配置したい!各種調理器具をキレイに収納したい!コンロ脇などのスペースを有効活用したい……!かくして我が家のキッチンの「コックピット化」は進んでゆく。
空間という空間、スペースというスペースを見逃さない。そこにふきんを引っ掛ける、鍋のふたを引っ掛ける、キッチンペーパーを引っ掛ける。そして、仕切る。箸などのカトラリーを仕切る、小皿やどんぶりを仕切る、冷蔵庫の野菜室まで仕切る。シンク下の扉裏側、足元の平たく大きな引き出し、頭上の空きスペース、とにかく引っ掛けたり仕切ったり。そうこうするうちに、シンク前から一歩も動かずに調理ができるようになる。キッチン・コックピットの完成である。
 
キッチンの収納具を買う時は、雑誌Martを参考に。Martの「推し100円ショップ」にてたくさんのラックと仕切りを買い、徐々に私のコックピットも完成しつつあります。もう来年あたり種子島から打ち上げができそう。
 ちなみにMart主婦的には、コックピットには機能性だけでなく、かわいらしさも重要。ギンガムチェックなコックピット。ボサノヴァが流れるコックピット。仕上げは瓶ですね、瓶。しかもただの瓶じゃない。ハワイで買ったスターバックスコーヒーの空き瓶、などがベスト。私もとりあえず100円ショップで買った瓶を置いた。中に何を入れたらいいかわからず、とりあえず並べてみた。正直「並べるだけでいいの?」感は否めない。でも打ち上げスタンバイはOKです、BGMはアントニオ・カルロス・ジョビンで。
 

 

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  私の母は料理が嫌いで、傍で見ていてもとにかく調理ができとうだった。ただ彼女の場合、「女性は家庭で料理をするのが当然」という時代に生きていたせいで、本来の「料理そのもの」を、純粋に楽しむことができなかったんじゃないかなあ、と今は思う。料理というものに余計な文脈がたくさん、くっついてくる時代。母は意地を張っていたのかもしれない。でもまあ、そんな気持ちも分からなくはない。
料理から、社会的・文化的なアレコレを除けて向き合うと、当たり前のことながら、人間にとって料理・食べ物の存在はとても大きいものだと感じる。かつて、つわりで思うように食事が取れない、何を食べても美味しくない数週間を体験したが、その辛さは予想以上だった。何せ人は一日に三度も食事をするのだ。「美味しいものを食べる」という行為が、日々の中で我々にもたらしてくれる幸福感を軽く見積もってはいけない。たとえ他に色々と楽しみがあったとしても、食べることが出来なくなったら、生きる気力をごっそり奪われてしまうのではないか、と想像している。
 


 ところでレシピには著作権がない、という話を聞いたことがある。レシピそれ自体は料理づくりのノウハウであって、「表現」ではないということらしい。(料理についてまとめた本などは著作権が発生する)そういえば先日、cookpadのレシピのまんま料理する女がムカつく、みたいな記事が炎上しかかっていたが、この、著作権がないという話から考えても、料理はむしろむやみに創作的でない方が正解である、先人たちが開発してきたノウハウに忠実につくった方がただしいとも言えるんじゃないか。というか、創造的だと時間がかかりすぎるしね。ツリー状のハンバーグとかね。

ということは「おふくろの味」なんかにも、著作権は発生しないわけだ。けれど美味しいものを一緒に食べたその瞬間は、唯一無二のものとして思い出に残るわけですね。

 


たとえば家族や親しい人に、感謝の気持ちを伝えたいとか、喜ばせたいと思った時。美味しい料理をつくるのは、一番と言っていいぐらい「手っ取り早い」方法なんじゃないか。特別な日じゃなくなんでもない日にも、食事は取るわけだから、そこにいつもより少しだけ手をかける、というくらいなら、さりげなくできる。そう考えると料理って、ベタなのにとても高尚な行いに思えてくる。私の場合はもっと自己中心的なので、自分が美味しいものを食べたいから頑張る、という感じだけれど。うちの母も意地を張らずに色々やってみれば良かったのに。小さな子と一緒に料理をすると、こねたりお団子にしたりなど、遊びに近い要素も含まれるから、これまた、たとえば雨の日、予定がない日の子供たちとの過ごし方として非常に手っ取り早いのに。

 
 
ベタだけど、意地を張らないでやってみたら実は面白いものって、きっとこの世にたくさんあるんでしょうね。毎日の料理は仕事にも趣味にも分類できない、力の入れ具合が難しいものだけれど、意外と、創造的な映画などよりもパワーを発揮する時があるんじゃないかしら。とか思いながら、頭上のキッチンペーパーにサッと手を伸ばしてみたりして。
 
 
 

*


冒頭の話に戻るけれど、とはいえ毎週の献立を途切れなく考えるのはやはり簡単ではない。そこで最近、「献立をオンラインで共有する」というのをお友達とやっています。それについては、次回書きますね。
 
 


ニッポンの妻に「個としての輝き」を!久谷女子第六号が出ます

お盆を前にお義母さまへの手みやげに頭を悩ます妻のみなさん、こんにちは。今日は告知です!WEB女子集団「久谷女子」による同人誌「久谷女子便り」の新刊が出ます。今回のテーマはWEB女子と結婚」です!
(久谷女子ってなに?という方はこちら)

WEB女子による同人サークル「久谷女子」とは何か - NAVER まとめ


実は久谷女子には既婚者が多いのですね。WEBをこよなく愛する女子が結婚するとどうなるのでしょう。夫たちも「WEB男子」なのでしょうか。夫は妻の趣味に寛容なのでしょうか、そうでもないんでしょうか。PCの配線は妻がやるの?ケンカしたらTwitterはブロックするのかしら。興味は尽きませんよね!メンバーの多様な結婚観・ライフスタイルを知れる新刊、必見です。(ちなみにタイトルの「個としての輝き」は、今号の編集中にメンバー内で大流行したキーワードです。詳細はぜひ本誌にて)

 

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■ 全部で100P!インタビューと寄稿も豪華です

今号はボリュームもすごいです。全部で約100P!読みごたえあります。毎号掲載されている「WEB男子インタビュー」、今回はなんと「株式会社ドワンゴ会長 川上量生さん」「株式会社ミクシィ会長 笠原健治さん」。お二人とも新婚さんなのです。さらにWEB女子特別編として、編集者であり津田大介夫人であるキキさんも登場です!!
中でもミクシィ笠原さんのインタビューはオススメです。きっとシャイな方なのでしょう、インタビューでは久谷女子の率直な質問に何度も「(照)」となりながら回答されています。こんな伏し目がちでメガネでシャイな方が会長なんて、ミクシィの今後は安泰だ……!

ゲスト寄稿陣もとっても豪華なのですが、はてなーの私としてはやはりまず、あの「下半身がフリーザ」で、はてなに元気玉をwぶちこんだ加藤はいねさんと、元・小町トピ職人のトピシュさんを推します!私はトピシュさんのおかげで、ママ友が「○○○○って発言小町に書いてあったの」と相談してきたら、すかさず「それは釣りだね^^」と言ってあげられるようになりました!
さらにイラストレーター&漫画家の水谷さるころさんのコラムも、共働き妻なら、涙なしには見られない内容となっていて、とってもオススメです。

 

 

■ 夫たちのアンケートも載ってます


そして今回は、久谷女子メンバーの「夫」たち自身が答えたアンケート企画も。いろんな夫婦の形があるねー、としみじみ楽しめる内容になっております。うちの夫はふだん誰にも聞かれないせいか、アンケートで自分語り(主にヲタク語り)がウザいぐらい長くなっていたので私がバッサリ削りました。
ちなみに私のコラムは?と言いますと、新刊の執筆時期と第二子の誕生がちょうど重なってしまい(前回のエントリ参照)、ほとんど寝てない中で原稿を書きました。新生児のお世話に明け暮れ、このままではマズい、自分だけではページを埋められないと思い、半分の1Pを夫に書いてもらいました。うん、「結婚」特集だし、いいよね!

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久谷女子の中で言えば私のポジションは「奈落、40位繰り上げ当選(あまちゃん)」に違いないですので、私たちのコラムを心待ちにしている方は少ないと思いますが、まあ「ガンダムと福満しげゆきが好きな真面目系クズでも結婚できるんだな」とか「mixi日記を誰にも読んでもらえない、巨人に例えると寄行種みたいな女性でも結婚できるんだな」、そんな風に思ってもらえる内容にはなってる……と思います。

詳しいコンテンツはこちらの目次をご覧ください。

◆巻頭座談会〈 これまでのあらすじ〉[久谷女子オールスターズ]
◆WEB 劇場型夫婦物語[猪谷千香(いがやちか)]
◆WEBと結婚と私[岡田育]
◆俺のワイフは久谷女子〜夫が語るWEB 妻像〜 ケース#1
◆【WEB男子インタビュー特別編 新婚さんいらっしゃい!(1)】株式会社ドワンゴ会長 川上量生さん
◆インタビュー反省会[猪谷千香・岡田育・岡田有花・閑歳孝子・鳩岡桃子]
◆WEB女子の異常な愛情[閑歳孝子]
◆はみ出し妄想書道1[カオルンバ]
◆俺のワイフは久谷女子〜夫が語るWEB 妻像〜 ケース#2
◆WEBはまわる 君をのせて いつかきっと出会う 僕らを乗せて[よーこ]
◆はみ出し妄想書道2[カオルンバ]
◆俺のワイフは久谷女子〜夫が語るWEB 妻像〜 ケース#3
◆進撃の独身[加藤はいね]
◆結婚について考えていること[まっきー]
◆【WEB男子インタビュー特別編 新婚さんいらっしゃい!(2)】株式会社ミクシィ会長 笠原健治さん
◆インタビュー反省会[猪谷千香・岡田育・岡田有花・閑歳孝子]
◆はみ出し妄想書道3[カオルンバ]
◆ウェブは体を表す[灰色ハイジ
◆日々是電脳[こへだ]
◆ちなみに私は20 代で旧帝大卒一部上場企業勤務の夫と結婚しました[トピシュ]
◆俺のワイフは久谷女子〜夫が語るWEB 妻像〜 ケース#4
◆俺のワイフは久谷女子〜夫が語るWEB妻像〜 ケース#5
◆インターネットは魔法のツール☆[鳩岡桃子(ハトコ)]
◆俺のワイフは久谷女子〜夫が語るWEB妻像〜 ケース#6
◆はみ出し妄想書道4[カオルンバ]
◆午前四時。WEBを見ながら「結婚反省会」[水谷さるころ
◆【WEB女子インタビュー特別編 〈奥様お手をどうぞ!〉】
◆編集者・津田大介夫人 キキさん
◆結婚? そんなことよりお金稼ごうぜ![家入明子]
◆はみ出し妄想書道5[カオルンバ]
◆うちの夫ってどうでしょう? / うちの妻ってどうでしょう?[こべに]
◆はみ出し妄想書道6[カオルンバ]
◆半径85cm 〜二次元がその手を伸ばす距離。[pinkpeco]
◆俺のワイフは久谷女子〜夫が語るWEB 妻像〜 ケース#7
◆俺のワイフは久谷女子〜夫が語るWEB 妻像〜 ケース#8
◆銛ガールの夫が「よめヲチャー」になった理由[山本友理]
◆はみ出し妄想書道7[カオルンバ]
ウェディングドレスとミシン目と私[岡田有花(ゆかたん)]
◆はみ出し妄想書道8[カオルンバ]
◆俺のワイフは久谷女子〜夫が語るWEB 妻像〜 ケース#9
◆巻末座談会〈 個としての輝き〉[久谷女子オールスターズ]
◆編集後記

 


ご購入は、コミケにて。夏コミ2日目、8/11(日)東館O-01aにお越しくださいね〜〜。その後の通販はまだ未定です!


 

■ もう一冊、「履歴書本」も出ます

履歴書本とは、久谷女子の「メンバー自身が振り返るデジタル人生を履歴書風にしたためた」まとめ本です(初出は2月のイベントです)。私もそうなのですが、2月のイベントに登壇しなかったメンバーも加え、全11名分の履歴書が収録されています。このデジタル履歴書、黒歴史を書く欄だけ行数が多いので、一生懸命書いていたら、そこからしばらく鬱になったことをここに告白しておきます……皆さんご自身が記入できるフォーマットもついてきますので、ぜひ記入してみてくださいね。こちらもコミケで同時発売です、表紙の「ケツの穴が小さくない人」が目印です!

 

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■ 8/31、阿佐ヶ谷ロフトAでイベントがあります

既に何回か行われているのですが、イベントもあります。「文化系キャバクラ」サロン・ド・久谷女子。今回は私も登壇させて頂くことになりました!緊張してくるのでこれ以上は何も書けません……でも会場でお会いできたら嬉しいです。
ハッシュタグは #自意識高い です(キリッ 詳しくはこちら!

サロン・ド・久谷女子 八月末の濡れたWEB – LOFT PROJECT SCHEDULE




以上、宣伝でした。どうぞよろしくお願いします。
久谷女子のfacebookTwitterもぜひご覧くださいね〜〜!



★合わせて読みたい
トピシュさんの紹介記事

元トピ職人の釣り解説 • [PR]「久谷女子便り第6号」に寄稿しました

高校時代を「共学・サブカル・田舎」で過ごすということ - 冬川智子さんのマンガを読んだよ

以前、「シンプルノットローファー」というマンガについて書いたことがある。

衿沢世衣子「シンプルノットローファー」。モンナンカール女子高等学校(中高一貫)に通う女の子たちの日常が12話、描かれたマンガである。大和田舞可(マイカ)始め、26名のクラスメイト一人ひとりが、主役になったり脇役になったりしつつ物語が進む。内容はというと、生物室で飼われていたヘビが逃げ出して大騒ぎしたり、ハンダゴテを使いこなす機械通のりょうちゃんが「今できることを、今やってみたかった」と家電修理の仕事体験をしたり、ケータイを手放せないエマが、登校中に『嗚呼、いっそこのまま、どこか知らない町まで行ってしまおうか…』とブログを更新したり…。どこにでもありそうな、しかし人生でたった一度きりの思春期の日々が、チャーミングに描かれている。


懐かしい気持でいっぱいになりながら読み終えて、しばらく経ってふと気がついた。ないじゃないか、あれが。決定的なものが。つまり、色恋が。



セーラー服で真夏のプールに飛び込んだことはありますか? -書評「シンプルノットローファー」- - kobeniの日記


あの時。もしかして高校時代を「女子校で過ごすか共学で過ごすか」って、ずいぶん違うのかな?と思った。そして今回、冬川さんのマンガを読んで、「やっぱり私の高校時代って『共学(のある種の女子)』ならではのものだったんだ…」と感じた。簡単に言うと「すごく共感するところが多かった」ので、つらつら感じたことを書いてみます。

ちなみに私は、作者の冬川さんと同世代です。なので下記はいま20代後半〜30代後半くらい、つまり90年代に10代を過ごした人特有の感覚かもしれず、そこから少し世代がズレると共感の度合いが薄くなる…かもしれませんし、そうでもなくて意外と普遍的なのかもしれません。

本文で引用するマンガはこちら。これから読む方のために、ネタバレは少なめで書きたいと思います。


「水曜日」

水曜日 (IKKI COMIX)

水曜日 (IKKI COMIX)


「あんずのど飴」

あんずのど飴 (IKKI COMIX)

あんずのど飴 (IKKI COMIX)


「マスタード・チョコレート」

マスタード・チョコレート

マスタード・チョコレート


■ 女同士の友情<恋愛?



「水曜日」の主人公・鳩は、中学から高校に進学する時「男子と話す」を目標にしている。たしか当時、私もまったく同じことを思っていた。そして高校に入ると、女子同士ではいつも「好きな人」の話をしていた。誰か好きな人がいる、ということがポイントであって、片想いでも両想いでもいいんだけど、やっぱり「告白する⇒付き合う」という風に成功した女子は、他を出し抜きステージを上がるというか、面クリ(一面をクリア)といった趣があった。

そうしてなんとなく「彼氏いないorDIE」みたいな空気がつくられていく。だから頑張って、どっかに男子を呼び出して告白する計画を立ててみたりする。そういうのが女子の友達グループ内で一大イベントになる。それでフラれてしまった場合(私はフラれました)、またグループでフラれた子の家に集まって、お泊まり会などして励ましあったりするんだけど、それも一大イベントになる。こんなことを繰り返すうちに女友達同士の結束はどんどん固くなっていく。

けれど、あくまで「彼氏いないorDIE」という空気の中での結束だから、彼氏ができたらその子は、放課後だって休日だって彼氏を優先するようになる。そして、女友達にはそれを止められない。大人の今なら、「彼氏・夫は別腹」といった対応ができるのかもしれないけど、10代という、恋愛に免疫が低い女子にそれは無理だ。とにかく「男子」が最優先。私はその感じがいつも寂しかったんだけど、冬川さんのマンガにはその「共学女子間によくある寂しさ」みたいなものが、様々な形でうまいこと描かれていると思った。「水曜日」も「あんずのど飴」も「マスタード・チョコレート」も、恋したい!と願うものの、いざとなるとどうしても「他の子たちのように、友情よりも上に恋愛を置き切れない、不器用な気持ち」が露呈する様が描かれている気がした。
私は、もはや自分にそんな葛藤があったことすら忘れていて、でも確実にあったことを思い出したから、なんだかとても切ない気持ちになりました。




■ 恋に恋する三年間(KK3)


「水曜日」に、鳩が高校の屋上で「架空の彼氏とデートする」みたいなコマがある。男子と話したい!けど話せない!という気持ちは繰り返し何度も出てくるのだけど、そこまで執着がある割に、鳩がどんな男の子を好きなのかは、サッパリわからない。共学だから周囲にたくさん男の子がいる環境なのに、具体的に誰のどこにときめいたか、というような描写がない。いや、別に鳩ちゃんを責めてるわけじゃないんです。要するに、恋に恋しているだけなんだよね。「両想い」になってみたいだけで、その具体的な相手像については、漠然としている感じ。

今になって思い返せば、クラスにも魅力的な男子ってたくさん居たよな、と思う。ただしその当時、彼らの魅力に気づけたかというと、全く別の話。鳩も結局、高校三年間を通して、「本当に好きな人」はできなかったんじゃないかなと思う(しいていえば、彼女が一番好きな男子はタモさんだろう)。
仮に三年目を「受験だから」という理由で除くとすると、高校ってたった二年しかないしね。


まあ、こんな風に無理して恋に恋するよりも、部活とか生徒会とか、やりたいことに没頭する方が健全なんじゃないかと思うんですが、どうでしょう。それが、私が女子校出身者に憧れる所以です。
そして当時、私の「両思い」への焦燥感を無駄にかき立てたのは、間違いなく当時流行っていた小沢健二の「LIFE」だった。だからあのアルバムちょっとだけ恨んでいる。

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■ 「オシャレ組」の存在


「水曜日」には「オシャレ組」という人たちが出てくる。見た目が華やかで、男女の仲がいい。既に中学の時点で彼氏彼女がいたりする。鳩はそういう人たちに憧れて、羨ましく思っている。

「オシャレ組」。確かにいた気がする!もとから持ってる容姿がかわいい、カッコいい男女。なぜかお互いを下の名前で呼び合っている男女。鳩はその子たちと仲良くなろうとして、手段のひとつとして「おしゃれする」を選んでるフシがあるのだが、その戦略が正しいのか?は置いといて、気持ちはすごくわかる気がする。容姿は変えられないけど、おしゃれはまだ、努力すれば磨けるもんね。

けれど実際は、おしゃれすることにより、なぜか見た目がエキセントリックな方向に行ってしまい、むしろ「オシャレ組」(特に男子)から距離を置かれてしまったりするのだ。ちょっと種類の違う人だと思われて、敬語で話しかけられてしまったり。制服着用がデフォである高校時代の「モテ」において、服装のセンスなんか二の次であって、磨いてもそう簡単にカーストの上には上がれないんだよね。遠足や修学旅行での私服をめちゃくちゃ気合い入れて選んで、わざわざ原宿ラフォーレまで行って買ったTシャツとか着てみても、あまり意味はない。「見た目とスタイルが良くて新体操部に所属する女子」とか、「地毛が茶色くてメイクしなくても十分かわいい性格もいい女子」とかにあっさり負けるから。地毛が茶色いのズルい!!

まあでも、今で言えば「リア充め……」となるのかな、そんな風に影で呪詛を垂れたりせず、このヒスのかばん持って行ったら…オシャレ組に気づいてもらえるかな☆といった感じで、おだんごヘアーやでっかい消しゴム(?)などでちっちゃく努力する鳩はかわいい。たとえオシャレ組に「○○さん(苗字で呼ばれている)、Tシャツ、裏表逆だよ?」と言われようと。そういうデザインなんです!!

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■ 「サブカル好き」で自分を守る



冬川さんのマンガには、「冬野さほ」や「魚喃キリコ」のマンガとか、ネオアコやインディーズのCDかな?と思われるモチーフがよく登場する。90年代にいわゆるサブカルと言われていたジャンルの。けっこう懐かしいです。

冬川さんもきっとサブカル好きなんだろうけど、これはマンガの主人公が、「オシャレ組じゃない自分」の自我を守るための必須アイテムなんじゃないだろうか。

「水曜日」は、天の声として冬川さんが鳩に突っ込む形で描かれている。「誰も見てない」とか「自分次第だ」とか。けれどこういう風に、本人の行動をギャグに昇華できるような客観性は、年を取った今だからこそ得られるものだ。冬川さん自身も、高校時代はプライドが高くて、しかし理想と現実のギャップに悶え苦しみ、そこから自意識を守るのに必死なために、人とは違う趣味=サブカルの世界(音楽、マンガ、小説、深夜ラジオ、雑誌、etc…)に没頭する女子(こじらせ女子?)だったんじゃないかと思うのですが、違うでしょうか。鳩はズッコケた感じの女子として描かれてるけど、当時の鳩は超真剣・超本気なのではと。少なくとも私はそうだった。そして調子に乗る度に、周囲の友人に容赦なくボコボコに言われてた気がします。嗚呼10代……
ちなみに「サブカル好き」も、カーストを上がる要素には一切ならず、男子から見たら色物まっしぐらだからね。最近は「ちょっと亜流の趣味を男子にアピール」みたいなモテ手法もあると聞きますが、私がいわゆるサブカルを好んでいたのは、間違ってもモテるためじゃなくて「自分らしさ」?って言うの??を守るためだったと思う。
けど、いわゆるサブカル好きが「自分らしさ」になり得るのは、このあと書きますが鳩の住まいが「田舎」だからですよね。


私も、共学にいるのにモテない=辛い楽しくない自分を支えていたのは、好きな音楽とか深夜ラジオだった気がするよ。その後「いいや、東京行くし、恋愛は」みたいな形で、自我を支えるものが「上京」にすり代わりましたが……

ちなみに当時、サブカル好きだった田舎の「男子」はどんな風に暮らしていたのだろう。よくよく思い返してみると、クラスにマイナーな洋楽とか電気グルーヴが好きな男子っていたなあ(※当時ヒットチャートはTK小室哲哉全盛期です)。けれどサブカル好き同士は同族嫌悪みたいな感じになってて、お互いをバカにし合って不毛な関係になっていたのではないかと思われる。サブカル好き女子は、サブカル関係ないオシャレ組男子にフツーに恋している(ただし報われない)か、「ジャック・ケルアック読んでて小山田圭吾みたいな見た目の男子いないかなー」みたいに異様にハードル上げすぎていたり。サブカル好き男子はそもそも恋愛に興味を持ってないというか、女子というだけで、話しかけると「宇宙人を見る」みたいな目で見られたことが…あるような気がします。どっちもどっちだ。いや、今はそういう男子好きですよ、だから怒らないで!

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■ 東京へ行くあの子、地元に残る私



「あんずのど飴」は、素朴な女子ふたりの友情物語だ。高校生活を通しだんだん二人の間に距離ができてしまい、うまく行かなくなる。ただそれだけの話で、原因だとか理由は、あまりハッキリと語られないところがヤケにリアルで、きっとほぼ実話なんだろうな、という気がしてくる。
サブカル好きだった、という話を書いたけれども、田舎にいるとサブカル好きをこじらせやすい。周囲に同じような趣味の人間がいないというだけで、自分が特別だと勘違いしやすいからだ。そして田舎で暮らしていると、自分が理想通り花開かない理由を、すべて場所=田舎のせいにできる。
「あんずのど飴」を読んでいると、高校時代というのはつくづく、自我をつくるための大切な季節なんだな、という気がしてくる。ふたりとも「自分が分からない(=将来の進路を書くことができない)」ところから始まり、「素直で人なつっこい」彼女がまぶしい、「自分を持ってる」あの娘が羨ましい、そんな風に思う気持ちを、時にまっすぐぶつけ合って傷つけ合って成長していく。この「ぶつけ合って傷つけ合う」というのが、10代の特権だという風に思う。
田舎者は、外へ出て自分の思い上がりに気がつき、大きな挫折感を味わうわけだけど、たとえ勘違いであっても、若い自分に対して大きな希望を持てるというのは、ある種「田舎者の特権」ではないか…と、最近思うようになりました。分別もついて大人になった頃に、やっと、自分が「あの子たちとは違う」と思っていたクラスメイトや、「ダサい」と思っていた周囲の大人たちが、どれだけ地に足のついたしっかり者で、それぞれに魅力的で、未熟な自分をあったかく見守ってくれていたのか、よく分かるようになるんですけどね。

ちなみにここで言う「田舎」って、田舎それ自体がよくよく見ると個性的、みたいな場所ならまだいいんだけど、そうじゃない。「あまちゃん」の舞台みたいな場所じゃなくて、大半の地方都市はもっと無個性で、まあまあお店なんかはそろってて、けど単に広くてデカいだけだから。
あまちゃん」も、東京と田舎をめぐる、10代女子の成長物語なので、とても面白く観ています。主人公のお母さん役のキョンキョンも、「結局、場所じゃなくて人なんだよね」と言ってたよね。


たまに10代の頃を思い出すと私は、本気で鬱になったり「うわああああああ!!!!」って頭を抱えたくなる。恥ずかしいことや思い上がったことをたくさんやってきました。けれど最近、同世代で同じような体験をしてきた人たちが、マンガや文章やドラマなどで、その頃のことを表現し始めていて、「まあ、良かったのかな。恥ずかしいことでも、失敗を恐れて何もしないよりは」と思えるようになってきた。それは彼ら・彼女らの今の表現が、そういう紆余曲折の上に成り立っているからこそ、素敵に見えるんじゃないか。と思うからです。都合よく解釈しすぎ?


「女子は、『花の高校生時代』をどう過ごしたかによって、その後の人生が決まるというのが私の持論です(今考えた)。」


(「水曜日」あとがきより)




皆さんの高校時代はいかがだったでしょうか。今の人生にも、実は大きな影響を与えてるかもしれないですよ。



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【参考】



田舎→大学進学・サブカルが出てくるマンガといえば、東村アキコ先生の自伝マンガ「かくかくしかじか」もメチャクチャ良いです。
「マスタード・チョコレート」と同じく、美大への進学の話です。


かくかくしかじか 1 (愛蔵版コミックス)

かくかくしかじか 1 (愛蔵版コミックス)

かくかくしかじか 2 (愛蔵版コミックス)

かくかくしかじか 2 (愛蔵版コミックス)



「こじらせ女子」という言葉で、なんとなく救われた気持ちになった私です。雨宮まみさんの著書もとても良いです。

女子をこじらせて

女子をこじらせて

だって、女子だもん!!: 雨宮まみ対談集

だって、女子だもん!!: 雨宮まみ対談集